わたしね、わかっちゃったんです。
ボディワークの何が一番好きか。
それはね、
自分を通した哲学だってところ。
ヨガを学んでいてずっと違和感があった。
ヨガ哲学を学ぶことは好きで、
なるほどなと思うこともあった。
「生きる意味」や「どう生きるべきか」
やっと教えてもらえたと思った。
言い切ってもらえたことの安心感というか。
まだよくわかんないけどそうなんだ、と。
賛否両論あるだろうけど、魂があるっていうことはわたしには実感としてあるし、
プラーナっていうのもわかるし、
学びたてのあの時にはわたしには必要だった。
救われたし人生観も変わったしそれでよかった。
でも、いつからか、その他の教えに関して、なんか自分とはズレたものに感じ始めた。
わたしには、それは上から降ってくるもので、
自分の泥臭い生活とガッツリ結びつく感じがしない。
教えという側面が強いっていうか。
教義っていうか理想っていうか
自分から湧いていくる感じではなくて。
向こうに合わせに行くというか当てはめに行くというか。
こういうものなんだよ今のあなたにはわからないだろうけどね
って置かれる感じ。
言ってることはなんとなくわかるし
言ってる理想になれたらいいなとも思うし
そうだよねって日常生活に当てはめて思うこともある。
でも何かしっくりこない。
わたしは輪廻転生を終わらせたいとも思っていない。
解脱したいわけでもない。
大いなる何かとつながりたいわけでもない。
結局わたしは何を目指していくんだろうか?
わたしがそう感じたっていうだけで
否定するつもりは全然なくて
真実であると言われればそれもそうかなと思う。
ヨガ哲学に救われる人がいるのは事実だけれど
わたしにはそう機能しなかっただけ。
それに、否定できるほどわかってもいない。
AIに壁打ちしながら自分の世界観を書いていると
ヨガ哲学よりスピノザとかカミュとか老荘思想って言われてしまった。
わたしだって最初からそんな方向性だったわけではない。
人生に意味はあると思っていたもの。
その辺を学ぶのも面白いかもしれない。
ヨガ哲学の本、積読になってるけど。
でも結局ヒトの脳の中のストーリーでしかないよねと思う。
どれが正解とも思わない。
一周回ってヨガ哲学に帰ってくる可能性だってある。
でもボディワークは
全部自分の体で感じられる。
呼吸がしやすくなった
動きやすくなった
重心が変わった
痛みが消えた
そして
感情が変わった
記憶に対する反応が変わった
あることに対する対応が変わった
考え方が
価値観が
、、、人生が変わった
全部、否応なく事実。
自分を通してしか感じられない事実。
本当のこと、体験できること、なのである。
先生がそう言ったからそうなんだな、
じゃない。
真実とはこうです、の説明でもない。
どうしようもなく自分が感じられる圧倒的な真実。
なんか知らんけどこうなっちゃう、という。
そして求めればその理由について説明してくれる人だっているという!
何かの教えって
先に進んだ人のものを教えてもらえて有難いけれど
どこか遠くの世界の話なように感じる。
でもじゃあ自分はそれを消費するだけなのかっていうと
きっと自分だって突き詰めていけば自分が得られる真実ってあるんじゃないかと思う。
なんかの教義だって、それを言い出した人には事実なんだろうけど、
わたしには事実というほど形にならない。頭でわかったとしても。
ディズニーランドに超詳しい人のレビューを読み込んでディズニーランドを知るのと
1回だけだけどディスニーランドに実際行ってみて感じることって違う。
読み込むだけでも詳しくなれるけど
自分で行くこともできるんじゃない?
そして両方できたら楽しいじゃない?
このたとえが適切かわからないけど、、、
日常の中で感じる喜びや悲しみや苦しさ
怒りや喜びや感動
過去の記憶
トラウマ
恨み憎しみ嫉妬
愛し愛され
不安
心配
善悪の判断
できない自分、劣等感、悔しさ、諦め
ときに優越感や勘違いに思い込み
優しさ、慈愛、自己犠牲、傲慢
いろんなものが自分の中にあって
日々振り回されたり観察したり病んだり
そんな他者を見たり
じゃあそれを実際のところどう扱うのか
どういなしながら
なだめながら
折り合いをつけながら
生きていくのか
そんなことさえ考えていないような人もいるし
せっかくのこの経験を
横に置いたまま誰かの教えを聞いているだけでいいのか
自分を感じて
乗りこなそうとする
それが今学んで実践しているボディワークだと思う。
誰かの教えは役に立つけれど
今すぐのガイドにするにはちょっと遠い。
そもそもわたしは
生きる目的っていうものは存在しないのではないかと
そう考える。
たまたま宇宙があって生物が生まれ
ヒトができて
たまたま都合のいい条件が重なって生きて繫栄している。
生きるために何かをしてきたのではなく
ただやってきたことが環境とマッチして
たまたま生き残ってきてる
わたしはそう思っている。
人間は脳を発達させることで生き残ってきた。
でもその発達は
「生きる意味」や「より良く生きるとは」という
本来どうでもいいことにまで思いを巡らせることになってしまった。
そして苦しんだり悩んだり病んだり。
わたしは、
生きる意味なんてない、
と思っている。
でもヒトはより良く生きたいと願ってしまう。
何かのために生きたい、とも思うかもしれない。
何にせよ
自分の感じることというものは
自分にしか感じられず
絶対的な事実である。
嫌いな人がいるという悩みも
家族とうまくいかないという悩みも
失恋も結婚も離婚も浮気や不倫も
病気も小さな不調も
もちろん大きな喜びや高揚だって
自分を通して感じられるもので
それをどう扱っていけばいいのか
どう波乗りしていけばいいのか
そもそもそれに対して自分の心と体はどんな反応をしているのか?
それを味わうことって娯楽なんじゃないだろうか、
せっかく高スペックな脳をもったことによる。
そしてそれが
共通して他の人にも感じられるものであるならば
そこを共有して遊び感覚で体を感じたり
痛み苦しみを感じなくてもよい方法を伝えあったり
法則的なものを見つけてそれをもとにガイドしたり
そんなことができれば
生きることを楽しめるし
共に生きるということも楽しくなるんじゃないかと思っている。
何のためにする、ってわけでもなく。
自分というカラダを使った人生をかけた娯楽。
せっかく与えられたカラダ、命をつかってすること。
しなきゃいけないわけでもなく
こんな楽しみ方もあるよって感じ。
自分という媒体を通して感じられる
原因と結果
法則や理
頭で理解するものでも
誰かに言われてするものでもない
自分だからわかること。
どんな本を読んでも
誰の話を聞いても
ふんわりとそうかなくらいに思ったり
そうなりたいと遠くの理想をみるような
腑には落ちなかったのもが
ダイレクトに感じられる
自分を通した哲学。
しかもそれが他者と共有できるときの歓び。
だよね!そうなるよね!面白いわこの道筋!みたいなやつ
自分で体験したことのないものは伝えられない
っていうのもそうだと思う。
だから、頭でわかっただけのレッスンは他者にできない。
でも頭でわかっただけの文言は言えるよね。
暗記しただけのっていうか。
唯一無二だよ。
感じないなんてもったいない。
もちろんね、痛みなく動けるとか、
楽になったとか、
そういう肉体的なラクさっていうのが主流だと思うよ。
ええ、わたしはちょっとおかしいんです。変態なんです。
哲学したくなくてもレッスンしに来てくださいね。
あなたもいつか変態になるかもしれません。
