質問の仕方で相手の思考が変わる

何が嫌だったの?

と質問すると

大抵の人は、

嫌だった相手の何が嫌だったか、
を探り始めるんだな。

そっか!
と思った。

そこなんだ。
何が嫌だったの?は、
「こうじゃなかったことが嫌だったんだよね」
って話をわたしは聞きたくて、

なのに 大抵は
「相手のここが嫌なんだよね」
になるんだ。

これじゃあずっと原因他人論。

質問の言葉を変えたらいいんだな。

でもこれはこれで、

ああ、まだこの人は外側に原因を見る状態なんだな、

ってわかる。

 

わたしがレッスンに来てくれる人に伝えたいのは、

 

これが嫌だった

じゃあどうだったらよかったのかという望みに氣づく

そのために自分は何ができるかを考える

つべこべ言わずそれをする

 

なんです。

偉そうなこと言ってますけど、

わたしもこれをスムーズにできるわけじゃないです。

でも、これができると、

すごくラクになることを知っています。

 

人のせいにしていても、

イライラするだけだし、

何も変わらない。

 

人のせいじゃなくて自分が悪いんだ、っていう意味ではない。

ある意味、

他人を諦めるんです。

他人が変わってくれるのを待つほど、自分の時間や労力に余裕はない。

例えば、

同居人がめちゃめちゃ散らかし屋さんで、こっちはストレスが溜まる。

そりゃあ理屈的には相手が片づけるべきです。

でも、その人が片づけられない人なんだったら、

片づけられる人になるのを待ちますか?

それとも、

自分が片づけますか?

片づけてあげる代わりに他の家事を担当してもらいますか?

一緒に片づける時間を取りますか?

散らからないようにモノを減らしますか?

氣にしない自分になりますか?

いっそのこと別居しますか?

それとも、我慢することを選びますか?
そう、我慢することも、選択肢の一つで、自分で選んでいるんですよね。
ちなみにわたしは、相手と暮らす期間がこの先も長いなら、
要望を相手に伝えて変わることを待ちつつ、上の項目の別居以外を試します。

今日も我が子は消しゴムのカスをダイニングテーブルに置きっぱなしにしていった。
経済的余裕があれば片付けや掃除なんて外注するなー!嫌いだもん!

 

もっとどうにもならないことで言えば、

出かけようと思った日に暴風雨だったらどうするか、です。

傘をさしますか?

レインコートを着ますか?

長靴の方がいいですか?

車なら何とかなりそうですか?

出かけるのをやめますか?

でもわたしはお気に入りの服と靴で出かけたかったのに!
と、そこを押し通すなら、それはそれで、そうしたらいいです。

でも、泥がはねたとか、濡れたとか、そんな文句を言ったら、

ちょっと何言ってるかわからないでしょう?

環境に合わせて対応する、ただそれだけです。

天気だろうが、人だろうが。

確かに、晴れてお気に入りの服で出かけられたらよかった。

暴風雨さえなければ良かった。

でも、そうじゃなかったんだから、

その環境であればどう対応したらベストかな?ってこと。

もし晴れていたら、をいくら議論しても、それは現実でない。

 

人は、天気と違って、本人の意思で変えることもできる。

確かに他人がもうちょっとちゃんとしてくれたら、

ワタシは悩まなくて済むんだけど、

相手が変わることを求めるって、

実は、なかなかのハードコースなんだよね。
自分のことだって思い通りにできないことが多いのに、他人に求めますか?

それなら自分には何ができるか?って変えていった方が早い。

相手のせいなのになんで自分が?と思うのもわかる。

わかるけど、だからって相手に対応を任せたら、

その間自分はずっと待っていないといけないよ?

どれくらい時間がかかるかもわからない。

しかも、思うような対応をしてくれる保証もない。

それでも、相手のせいなんだからって譲れないなら、

それは『そう自分が選んだこと』だから、

今どんなに不満足な状態であったとしても、

それあんたが選んだことだし、になる。

 

というわけで。

何か不満が出たときって、

自分はどうだったらいいんだろう、っていう方に目を向けて、

それに対して何ができるか考えるといいです。

 

「何が嫌だったの?」

のあとには

「じゃあどうだったらよかったの?」

もセットで考えよう。

ま、ただ愚痴りたいときもあるから、それはそれで聞かなきゃなって思う。

 

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