休むことへの罪悪感、がんばっている感

休むことが悪いと思ってしまう。

なんて怠惰で無能なんだろうと思う。

そんなときは、『がんばったから、疲れたんだよ』というよくある慰めの言葉も上っ面しか触れない感じ。

そもそもがんばっていないのに、なんでこんなに疲れてるんだ自分、っていうやつ。

 

しかし、わたしは氣づいた。

がんばってないようで、とても変化を起こしたから、疲れたんだ。

そう氣づいたのは、

週末2日間のボディワーク講座のあと。

学んだワークは、特に筋肉疲労を起こす強度はないし、
疲労するとしたらエラーだ。本来辛いわけのない動き。んー、首が痛かった。手首、あと胸の裏。

地味で小さな動きばかりだ。
できなさすぎてフッと笑っちゃうやつ。

あとは話を聞いていただけだ。
運動神経と感覚神経だって、「動かす方と感じる方」くらいしか頭にない。でもまあそれがわかればいっか。

そして最近、あ、そーゆーこと!って学んできたことがピカーっとわかることがあって面白い。

それから美味しいカレーも食べたし、
講師自らカレー作ってくるとかそんな講座あるだろうかカレー講座でもないのに
毎度喫茶店級の美味しいコーヒーも付いてくるとかあるだろうか。

仲間とお喋りしたとか、爆笑したとか。
最近やっと、ご飯食べながら喋ることができるようになってきた。
みんな何も考えないでできるんだね、食べて喋るって。
あっっ、黙食。。。

そして、二日目の夜、わたしは、生ける屍だった。翌日も。
どんな表現(´Д`)

起きてはいるけれど、脳がお休みしてるのである。

身体も重い。ボンヤリする。眠い。

あれー、なんでこんなに疲労してるんだろう。

 

でも、ボディワークの特徴として、

がんばっている感がない、なのに変化が起こる、というのがある。

がんばるという意識は要らないのである。

でも観察しながら動いたことで、
初めの頃は観察までできないかもしれないけどそれでもカラダには入力される

脳の方は、かなーり使うことになる。

意識しなくても、情報がたくさん入ってくるのだ。

ワークの最中からあくびが止まらない、なんていうのはそういうことだ。

 

氣づいていないようで、外からは見えない内面で、ダイナミックなことが起こるんだろう。

わたしたちの多くは、

がんばったという意識があるかどうか、それと見える結果で、

できたかどうかを判断する。 

ボディワークはがんばる意識なんてむしろ邪魔だし、

今やっているワークの動きができたかどうかっていうのは、

さほど重要ではない。

そのワークをすることで、意識を向けていない他の場所に変化が出る、

それが連動して日常の動き全体が変わってくる。

本質的な変化が、経験の少ない人にはわかりづらいとは思う。

 

ということは。

がんばった感がなくて がんばれない自分を責める仕組みは、

おかしいだろってことになる。

何がどう変化したかに、がんばった感の有無は関係ないんだから。

がんばって動かなくても、ココロもカラダも、

運動も感覚も思考も感情も、変わるのなら、

それはゆくゆくは人生が変わることで、

そんな大きなことが起こっているのに、

「がんばった氣がしない」は、どーでもいいではないか。

 

無理をしたか、限界に挑戦したか、苦しみに耐えたか、

それを経験しないとダメな氣がしていて、

そこまでやってないんだから疲れるなんて甘いわ、

みたいなこの思考。

どっから身につけたんだよ。

要らんわ。

ポイッ。

 

日常でもそうだ。

ときどきシゴトしながら家事をしているだけだ。

家庭にも特に大きな問題はないし、家事は相当手抜きだし、

部屋も散らかってるし、

なのになんでこんなに疲れるんだろう。

疲れているわけがない、と思う、けど疲れていると感じる。

疲れるのに休めない。がんばってないのに、悪い氣がして。

 

いやそれ、たぶん、

がんばってる感がないけどいろいろやってるんだろう。

ぼーっとしているようで、晩御飯のメニューを考えている。

昨日は魚だったから今日は肉か。

野菜は味噌汁に入れればいいか。

寒くなってきたから身体を温めるものがいいか。

ああ、保育園にお昼寝用バスタオル持っていくんだった。

今度の園外保育はお弁当いるな。

その日は他の予定もあった、時間の確認しなきゃな。

思考だけでも、こんなだし。

 

がんばっている感がないけど、

いろいろやってる。

そしてそれは、人によって負担感が違う。

得意不得意で。

あとは回復力。生まれもったものや、そもそもの身体の状態。

人によって、実は思っているよりたくさんのことを処理している人もいるのかも。
わかりやすく言えばいわゆるHSPタイプ。これは性質であって障害ではない。そういうこと言い始めると障害って何だって話になるけど長くなるのでここではしない。こういう性格、性質ですよってだけだと思う。栄養的な問題だと言う人もいるし。そんなもんねーよ、って人もいる。わたしは、その傾向性に合わせて対策があるというので救われる。ちなみにわたしは強度のHSPって出る(115/125)。休むことに罪悪感をもつのもHSPあるあるですって。いやん。
https://cocoyowa.com/hsp/diagnostic-test/
このサイト結構好き。

 

いまさら、よくわかった。

 

そして、疲れたと感じたときは、間違いなく疲れているんだ。

がんばっていないのに、は関係ない。

ボディワークも、力み始めたり、わからなくなったり、イラっとし始めたら、

すぐに休憩する。

休憩すると、そのあと、さっきよりできるようになっていたりする。

これがまた不思議。

不思議、と思っていたけれど、

意識としては休んでいるようで、

脳の中ではいろんな処理が行われてるってことね。

休むっていうのは、

何もないとか止まるとかそういうイメージがあるけれど、

実はそれは意識の上のことなだけで、

休むって超重要なことなんだと思う。

 

この脳の疲労した感じって、

ウツのときに似てる。
でも死にたくならないところが違う。

ウツも、脳の疲労だって聞いたことがある。

自覚できないままウツに突入していくのは、

やっぱり、

がんばった感があるなしの問題かもしれない。

こんな程度でおかしくなるわけない、の繰り返し。

苦しんでがんばったと感じるかどうか、

そこはどうでもよくて、

休んでいいんだな、そういうのって。

何もできない、って悲しくて残念なきもちにもなりがちだけど。

役に立たない、意味がないってね。

でもそんなことない。

 

 

単純に考えても、

走り続けるためにはときどき休んだりメンテナンスすることが必要なんだから。

マラソン選手だって、車だって、そうでしょ。

走り続けるとかむーりー。

そういう意味で考えると、

そんなに酷使していないのに休むなんて罪、

って思うけれど、

休みって、がんばりや生産性がゼロとかそういうことじゃなくて、

モードを変えるだけなんだと思う。

また必要なときにがんばるために、生産性が必要な時のために、

その陽のときのために

陰というお休みはなくてはならない。

とは言っても、そう思えばとりあえず納得できるかなっていうだけで、

陽のための陰、ってわけではないとも思う。

どちらも、大切。どちらのため、はない。

休みにも大きな意味がある。無意識化で何かは起こってる。

陰と陽、合わさって、ひとつ。

 

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