もっと〇〇な自分になりたい。
そう思って学んだり考えたり悩んだりしている。
一方で
良くなろうとしないとか
人のせいにしたりとか
文句だけや攻撃だけの他者を見ると
イラっとしてしまうこともある。
自分はそこから抜けようとしているから、かな。
でも自分はきっと一生かけても完璧にはならないし
他者もそう。
じゃあ一生
自分のお尻を叩いて成長成長ってして
他者の至らぬ点を見てイライラするのだろうか?
もっと穏やかに幸せになりたくてしているはずなのに
これでは目的と得られるものが一致していない。
では、どうするのがいいか。
未熟であることを許容すること
丸ごとそこにあって良いものとすること
思うようにならないことも含めてひとつとして
愛することができること
基本の、当たり前のことではある。
たとえば我が子が
毎日遅刻しそうでバタバタでこっちが焦らされたって
それは長所とは言えないけれど
それでダメだとか嫌いとかではない。
夫が食器洗いと排水溝洗いのスポンジを間違えたって
それで憎しみが生まれるわけでもない。
わたしだって
忘れっぽくたって
食べ過ぎたって
ダラダラしてたって。
いいのに。
あの人だって
優しい言葉をかけられなかったり
怒ってばかりでも
いいのに。
思うように予定を消化できない自分や
気遣いが全然ないように感じる他者のこと、
謂れのない攻撃を受けることなんかには
ウンザリしたり腹が立ったりする。
でもさ
人ってそんなもんだよね。
欠けてるところなんてたくさんある。
コミュニケーションの行き違いだってある。
それに対していちいち引っかかって感情を波立たせることが
不幸せ。
修行の足りない我々は
感情が動いてしまうことはあるけれど
それに飲み込まれない努力はできるのではないか。
もちろん克服するという方法もある。
けれど
克服した方がいいことなんて永遠にあって
もっとこうだったらいいのになって
それなら
道の途中の自分たちのことを
それはそれで当然ある姿だと
そこに置くこと。
よりよく、を見つつも
今ある不完全なものを愛する
それには
自分の不完全さを知ることが
不可欠。
自分だってこんななのに
他人様に何を求めてんだっつーの。
そうすると
まあそうだよねって思う。
自分の不完全さは
精神状態もそうだけど
ボディワークのレッスンをしていると
どうしようもなく感じる。
うわ、こんなこともできないんかい、と。
こんなこと、が、
自分と他者では違うってだけで。
人生は
この地球でいろんなことを経験する場なんだとしたら。
良いことばかり
問題のないことばかり
そんなわけはない。
怒りも悲しみも
あらゆることを経験する。
歓喜も感謝も。
色とりどりだ。
生も死も経験するんだもの。
辛いこともあるよね
優しくできないときもあるよね
気づかないときもあるよね
うまく伝えられないときもあるよね
勘違いすることもあるよね
うまく行かなくて難しい顔する日も
駄々こねたくなる日も
八つ当たりする日も
そうそう
そういう経験もしに来たんだ。
うまくいかないと思うことを
できるようになる喜びも。
どうしようもないことに対する無力感も。
もうそんなのは嫌だから何とかしようとすることも。
でも
わかり合える喜びも
ハグから伝わる言葉のない愛も
濃くなったり薄くなったり
いろんな経験が色とりどりに重なる。
ずっとその色でいるわけでもない。
虹色のリボンみたいだ。
誰が何色で描いていようと
自由なんだろう。
怒りをぶつけられると嫌だけど
怒ってる本人が一番不幸なわけだし
怒ることを許してあげるといいのかもなって。
泣いてる赤ちゃんに「あら~怒ってるの~?よしよ~し」的な。
怒っちゃう自分のことも許せばいいし。
子ども時代のリボンは何となく無邪気に染められ
だんだん自分でデザインできるようになっていく。
キャンバス、っていうよりリボンだな、時の流れがあるから
制約はあれど
その中でどんな色を選び取り
どう配合し重ねていき
どのくらいの広さをそれで染めるか。
それって豊かなのかもしれない。
終盤辺りにはどんなリボンになるのだろう。