欠けと創造、仮定の話

自分が無いと思っているものは

本当はあるんだっていう世界を

作りたくて

人はそこに生きる。

 

これは

わたしの仮定の話である。

 

たとえば

「みんな自由に思うままに生きていいのだ」と

そういうことを伝えたいと思う人は

「自由に思うままに生きてはいけない」

ということを経験していたり思い込んだり

している。

でも

そんなのは嫌だから

そうじゃないよって

自らの生き方で実行したり

発信したり

している。

 

でもさ、

たぶん、

何言ってるかわからない

って人もいるわけよ。

そういう人にとっては

自由に思うままに生きるというのは

呼吸をするくらい当たり前のことで

わざわざ取り上げるようなことではない。

ということは

この世にそんな自由が無いわけではなくて

やっぱり

前者の

形にしようとしたり発信したりする人にとっては無いものなだけ。

無いからそこにあることを彫り出そうとする。

彫刻のように彫り出す。

そして誰にでも見えるようにする。

有る人にも、無い人にも、見えるように。

そうして

この世にそれがあることを映し出して見せる。

 

わたし。

もうすぐ誕生日でね。

自分は生まれてきてよかったんだろうかと

この時期はよく思う。

生まれてこなくていい命なんてないと

そんなことはわかっている。

でも呪いのようにねっとりとして離れないこの思い。

こっそりついてるフィルムみたい。
何年もあとになって「あ、これって保護フィルム貼ってあったんだ」みたいなやつ。

ああ、それをペリーーーーって剥がせば新品みたいにピッカピカ。
剥がれるかなぁ。いつか剥がれるな、きっと。

娘がくれた絵、何が生まれるのかな

わたしは

みんな自分らしく生きていい

自分磨きは楽しいけれど違う人にならなくていい

そういうメッセージを

伝えたいと思ってきた。

それが職業選択にももちろん影響しているし

子育てにだって人付き合いにだって

今までの生き方すべてに影響している。

これからも伝え続けたい。

だけどそれって

一番言ってあげたいのは

自分に対してだよね~。

って思ったら
不覚にも泣けてきました。

涙が出るときってそれが本当の想いだって聞いたことがある。
だから泣いていいんだって。

 

わたしは

自分を大切に生きていいとは思えていなくて

自分を大切にしていいんだと自分に言い聞かせて

そうしてもいい世界を作りたいと思って

でも最初からそんな思いをせずにニコニコ生きてる人に違和感を感じて

自分は勝手に無いことにして反骨精神燃やしてるのかなって

自分の傷にこだわってるだけなのかな
ひねくれているのかな
全部やめたらいいのかな

って思ったけど

 

何かを形にしたり伝えたりしたいって

無いと思っているものを

彫り出してこの世に存在することを見せることなのかな

ちゃんとあるよって。

 

そういうことなのかなって。

そういう役目なのかな

みんな。

そのために何かが無い感じをもっていて

だからそれがある世界を作ろうとする。

生まれたよ…ニワトリさんも( ゚Д゚)

 

欠けっていうのは

その人の弱点でもあって

毎度同じようなことで悩んだり傷ついたりする。

 

誰しも、何かしら、あるじゃない、欠けた感じが。

ジェンダーのこととか
裏の思惑はともかく純粋に活動してる場合

お金のこととか

親子の愛とか

〇〇の人を救いたいとか

そういうときって

欠けを見てる。

でも

人によってはそんな欠け、何にも気にならない。

じゃあどうして気になるのか?

それは

やっぱり

自分には欠けてるから。

 

すごくわかりやすい例なら

自分はカラダのここが痛くてでも治ったから

痛みのある人を助けたい

痛みのない世界にしたい

ってやつ。

痛くない人にとってはどうでもいいけど

痛い人にとっては助けになる。

それができるのは

痛みを知っているから。
痛いことってあるよねって知っているから。
自分や周りが痛みに困った経験がなければ
痛みから救いたいなんて思わないでしょ。

 

一見幸せそうなものも、そう。

ヨガでみんな幸せに

っていうのも。

もっと便利な世界にしたいのも

もっと平和な世界にしたいのも。

 

え、そんなのもうあるし充分じゃん?

何がそんなに問題なの?

って思う人もいるのに

それを他の誰かはおかしいとか足りないとか思っている。

例えばわたしは男女平等とかにこだわる人の気持ちがわからないけど
そこにすごく敏感に反応する人もいるよね。
そこに何か欠けを感じているから。

同じように、たとえば

みんながヨガで幸せを感じられるようにしたい

と思う人もいるけれど

そんなの別に必要と思わない人もいるわけで

ということは

その「ヨガで幸せを」の人が

今の状態では全然満足じゃないってことでしょ?

一見、ヨガで満たされているようでそれで他者に貢献したいようにも見えて

実は満たしたいと思っているのは自分でしょ?

自分が満たされていると思っていたとしても
たぶん満たされていないけど

周りはまだ満たされていないんでしょ?

そのことで自分が満たされていないよね?

ややこしや?

 

でもその欠けって悪いとか悲しいとかそういうわけじゃなくて

 

欠けっていうのは

その人がこの世でどんな世界を作りたいかってことの

材料なんだな。

自分にとって無いから創りたい

そしてそれが他者の世界にも有るものになる。

 

だからわたしは

自分を大切にして生きようよって

心も体も大切にして生きようって

伝え続けるのかもね。

そういうことをみんなに伝える

そういう世界をつくる
あるってことを確かめる

そのお役目のために

そうさせる経験がある。

 

欠けを感じて

それをどうするか。

ただの傷や弱点とするか。

そもそも感じられなくて
不快を人のせいにしてワーワー言う人もいる

 

そう思った話。

仮定だよ、絶対じゃない。

 

人を導くようなすごい人でも

導けるということは

その道を知っているということ

苦しんだ時期があるということ

知らずして導けるふりをしている人もいるよな

 

もし本当に何もかも満たされてしまったら

人って何もしなくなるのかもしれない。

 

願いって

それがないから

願うんだもんなぁ。

 

あなたは

何を伝える役割なんだろうね?

何をしたい?

そしてそれはどこから来たの?

(*^^*)

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