レッスンは自主練でよいのか?ガイドの意味

家でもこの動きやった方がいいですか

と聞かれることがあります。

 

やったらいいと思います。

だけど、それだけじゃ限界があります。

もちろん、練習してみるのは良いと思う。

でも、自分でやると、自分でできることから先には行けないから。

もっとバリエーションは出るだろうし

もっと上手になるかもしれないし

だけど

自分では選ばない動きや

自分では思ってもみなかったアイディアは

一人ではどれだけやってても出てこない。

 

だから、ガイドされることって

新しい扉の鍵みたいな感じだ。

え、そういう動きも可能なんだ?

あれ、そういう意味だったのか!
わたし全然違う動きしてたじゃーん!って可笑しくなる

意外ともっと行けるのか!

みたいなやつ。

知らんかったー!

ってやつ。

 

日常生活でもそうだよね。

自分だけのアイディアで生きてると

自分視点しかないからさ。

自分と似てる人と話しても楽しいし
似ているからこそちょっとだけ違ったバリエーションに出会える

全然違うタイプの人と話しても楽しい。
目からうろこ的なこと言われることよくある

そこに、「違ってもいい、お互い異なってもいい」っていう前提があるのならね。

 

でさ、話は変わるんだけど

わたしは、レッスンするより受けるほうが好きです。

自分の世界が広がるからね。

ないものを獲得してその後の日常が変わるって

なんかすごいアイテムゲットしたみたい。

さっきまで胸が全然動いてなかったんだなー!

動きを手に入れるとなんて快適で明るくなるんだろう!

 

個人レッスン受けに行って

どうしても、うつ伏せで胸に自分の重さを乗せられない、ということを感じ
何言ってるかわからないかもしれませんが、
うつ伏せで寝ているからには自分の重さを床に預けることになるのは当然ですよね?

じゃないと浮いちゃってますから。
それがうまく預けられていないってことがあるんですよ~…

そこに乗せる動きをすると

なんとも嫌な予感がしてくる。

どうして右胸に乗ろうとすると

「わたしはみんなに嫌われている」

って思うんだろう?なんでそんな言葉が浮かぶんだろう。
どうしてそういう思考になるのかっていうのは
自分なりに掘り下げて心当たりがあって
それは幼少期に仲良くしたいお友達が一人もいなかったってことなんだけど
そういう理屈で理解していても、身体を動かすと記憶や感情が滲み出て溢れることがまれにあります。

ふっしぎー!

っていうかこれまた泣きたくなってくるやつかな

「なんか、のれ、ない、です」

って嫌な予感満載でつぶやいたワタシに

ガイドしてくれるハマさんは
わたしのボディワークの先生です

「任せてくれよぅ!」と

今にも鼻歌歌い出しそうな雰囲気でワタシの身体を動かし始めるのであった。

怖いとかつべこべ言う暇も気力もなくもうお任せするしかなく

そして何事もなく無事にわたしは胸に乗る感覚を得たわけですが

まあこれで「わたしはみんなに嫌われている」がどうなったかはわかりません。

今回は、理屈的にすでに自分で処理できていたから
だってそう思うようになったきっかけはわかったし
そう思い込んでしまったのは幼いわたしであって
中年女のわたしはもうそれが
思い込みでしかないことは理解できるのだ

大きな混乱もせずわんわんしくしく泣きだしたりもせず
過去にはよくありました

心や身体を感じながら味わえたのかもしれない。

 

で、話は戻るんだけど

自分一人で動きの練習をしていたら

こういう、あ、ちょっと嫌かも、っていう動きはきっとしないのね。

それが無意識だったらなおのこと。

 

だから、安心できるガイドがあって

自分にはない動きや思考のヒントをもらえるのなら

それは自主練とは全く質の異なるものだと思うのです。

 

そして

多様なガイドをするには

自分が経験しているからこそなんだよなぁ!

経験していないとしても、仕組みの理解。

そこまでいくにはやっぱり経験が必要で。

たぶん、レッスン受けたら、より有益なレッスンできるようになる。

自分を磨くことが誰かの役に立つって、いいねぇ。

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わたしの手帳タワー。実はこれで全部ではない。


自分で掘り下げたり言語化したりするには手帳の活用もおすすめ。

ボディワークのほかにも、こういう、過去のいろいろの捉えなおしや

思考の癖に気づくこと、今思っていることを意識にあげること、

みたいなのにも、貢献してるかもって思った。

 

なんかいろいろ話が飛んじゃう回でしたけど

今日はここまで。

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