将来の夢
についてボディワーク講座で話題になった日の夜
ふと見た中学生長女の自己紹介カードの
将来の夢は
『親孝行できるような職につく。』
そうねぇ。
なりたい職業なんてない、何があるか知らないし。そう、上の子たちは言う。
だからこの表現は、長女にとっての苦肉の策だったのだろう。
しかしわたしは思う。
え、親孝行??
親孝行ってなんだろう。
親孝行できる職、と聞いてパッと思いつくイメージは、非常に世俗的なんだけど、
たくさん稼いで親に家建てたとか?
狭き門で高収入?
何かの超一流?
…よーわからん。
でも確かにわたしも、親にとって恥ずかしくないようにって思ったことあったかも。
娘さん仕事何してるのーというご近所の質問に、公務員とか教員とか、手堅いところで答えられたら良いのかと。
そんなことを書いてるわたしは
「ハァくだらねぇ…」
と思ってますよ。
そんな一瞬か二瞬か三瞬くらいの親の状況に配慮することは、子どもの人生かけるほどのことかと。
だからまず、この子は親孝行を具体的に何だと思っているのだろうかと、思うのであります。
親孝行ってさ、
親が喜ぶようにってこと?
だとしたら、
親によって、喜ぶことは違うだろうな。
それこそ、そこそこの給料もらえて、そこそこの歳で結婚して孫もできて、とか?
子どもから金銭的援助を受けようなんて1ミリも思ってないし、親に使う金があるなら自分に使えって思ってる。
ただただ、あなたが幸せなら、何でもいいよ。
それによるわたしの感情なんて、わたしの管轄なのよ。
喜ぼうが悲しもうが心配しようが。
我が子を通していろんな思いを経験することが幸せ。
恋愛と似てない?切なくても苦しくても、幸せなのよ。
我が子が好きなようにしていきいきしてくれたら、
それがわたしには一番嬉しい。
親のことは氣にせず好きなようにしなさい、
そう思うのが親の愛じゃないのかなぁって思うけど、
そうじゃない人がたくさんいることも知っているし
(親の恩を忘れたのかと真面目な顔して言う人を知ってる。わたしそんなこと言われたらドン引きするわ)、
好きなようにしてほしい、ということさえも親の希望の一種であるという矛盾。
親が子どもの喜ぶ顔を見たいように、
子どもも親の喜ぶ顔が見たいパターンだってある。
だからそこを無理矢理カットさせるのも変だ。
職業という枠の中からシゴトを選ばなきゃいけないという違和感、
ずっと前からあるんだよね~
↓
わたしは子どもの頃の夢を、一応叶えたけど、
やっぱ違ったわ、って思った。
だから、
将来の夢(職業)に一直線に進まなくてもいいと思う。
それがゴールってわけではないもの。
それに、そのときは、知ってる職業の中で一番マシそうなもの、
っていうか自分でもできそうなもの、
その仕事に就く道のりがイメージしやすいもの、
という視点でしかなくて。
そのときそのとき、したいこと、惹かれること、必要なことをしていったら、
結果的に何かになってるというのが、
現実なんじゃないかなぁ。
わたしね、
思い出したのよ。
美術系の学校に行きたかったこと。
小説を書いて暮らしたかったこと。
今思えばエッセイ向き
仲間が言ってて思い出した。
あ、そういえばそれだった。って。
それを職業に結びつけようとは思わなかったな。
「そんなんじゃ食べていけない」から。
「そんな学校に行けるほど専門的にやりたかったわけじゃない」から。
「その世界のお偉いさんに認められないといけないなんていう世界は無理だ」から。
ヨガインストラクターになるっていうのもちょっと無理系な夢だけど
手堅い仕事やってたからこそ、金銭的余裕があってやってみたこと。
でもそれ、全部、別に職業じゃなくてもいいんだよね。
したいこと、職業、将来の夢。
イコールってわけではなさそう。
何をして収入を得るのか?
何をして生きたいのか?
わたし、結局いろいろ思い通りに生きてきてるんだよなぁ。
思い通りにできなさそうなことも、不思議と現実になってるし、
意志の力で何とかなりそうなことは、
叶うように行動してきた。
うまくいかなくても、結構な代償は払いつつ、結局思い通りにまとまっていく。
ほら、例えば、うつなんかは、ああならないと今はなかったし。