『させられている』と『自分で選んでしている』を勘違いすると病む

どんな言動も自分で選んでしている

まずはここを理解してください。

今回の話は、これが理解できている前提です。

 

どんな言動も、

自分で選んでしています。

一見、他の人にさせられたようなことでも、

結局自分で選んでいます。

 

たとえば、

勉強してそこそこの学校に行って、そこそこのところに就職する。

やりたいことはあったのに親が言うからそうした。

敷かれたレールの上を走らされていた。

 

と、あなたが思っているとする。

 

でも、

勉強するという行動をしたのは自分で、

受験だって、何なら「絶対に行かねー!」って当日に家出しちゃえば受験はできなかった。

あとで親が何を言うか、そんなのは知らん。めんどくさいよね!理解してくれるとは思えないし。
それを回避したくて言うことを聞く、を選ぶんでしょ。

しかし、受験会場まで行って試験を受けた。

就職だってそう。

御社でぜひ、なんて言わないで、雇われるなんてまっぴらごめんだぜ!って口走っていたら?

逆に採用されてしまうかもしれない

自分探しの旅に出ます、って新卒採用ぶん投げてインドにでも行っちゃったら?

自分、インドに居るんかい?

親はきっかけだっただけで、

どうするか決めて動いたのは、自分。

 

だってあなた、リカちゃんとかじゃないでしょう?

お人形遊びで、何もかもうちの末っ子が動かして、

喋る内容もうちの末っ子が決めて。

それなら、リカちゃんの人生は、リカちゃんのせいじゃなくてうちの子のせいです。

でもあなた、

自分で動けるし、自分で喋るでしょう?

親があなたのカラダをもって動かして、

親が腹話術始めて代わりに喋ったわけではないでしょう?

 

敷かれたレールの上を走らされたんじゃなくて、

敷かれたレールの上をあなたが走ったんです。

厳しいこと言いますよね。でもこれね、わたしがそうだったんです。

 

他にやりようはいっぱいあったんですよ。

でも、それを選んだ。

確かに、仕方がなかったかもしれない。

そうするしか、そのときの自分は知らなかったから。

でも、それしか知らなかった自分のせいでしょう。

だって、他の方法を知っていたら、そっちにしたかもしれない。

自分の条件が違ったら、違っていた。

末っ子が保育園で作ってきたハリネズミがかわいい

 

同じ行動でも、目的が違う

 

勉強しなくちゃいけない、親の言うことは聞かなきゃいけない。

だからする。

 

というのと、

 

親にゴチャゴチャ言われたくないから勉強するし言うことも聞く。

 

は、

違うんです。

よくわからず言われるとおりに勉強するのと、

親との衝突を回避したくて勉強するのと、

目的の自覚によって意味が全く違う。

 

 

または、

 

介護しなきゃいけない、そういうもんだから。

 

というのと、

 

人から変に見られるの嫌だから、介護はしとこう。

 

は、違うんです。

 

後者は、

辛かろうと、人の目が気にならないように介護をしている、という自覚がある。

その目的が達成されれば、いいんです。

でも、前者みたいに嫌だなぁって思ってて、介護しないことによるデメリットをあまり感じられないなら、

そりゃあ嫌になっちゃいますよ。

別に他人から何を言われようと、嫌なもんはイヤ、なら、介護しなくたっていいわけです。

わたしはここも勘違いしていました。
障害のある弟の面倒を見なければいけないのか?

お姉ちゃんだから?そういうもんだから?
…それは、親の中や世間の常識であり、わたしは嫌です。わたしにはわたしの人生がある。
介護が必要な種類ではないんだけどね。
それを無理して引き受けていたら、弟にも親にも、嫌悪感が増し増しになってたと思う。
そしてさ、わたしが嫌だって言えば、、向こうは次の手を探すんだよね~。
そんなもんかぁ、と思った。引き受けるところだったよ、危ない危ない。

 

自分で選んでいるから、の落とし穴

ということまでわかると、

ああ、これからは自分で選んだという自覚をもって生きていこう、

と思うわけです。

 

何かあるたびに、

はて、わたしは一体何を何のためにどうしたいのか?

と自分に問います。

 

さあ、ここからが落とし穴。

させられているって思ってやっちゃいけないんだ。

 

わたしはこれがしたくて自分でやっているんだ。

 

と、、、思い込むのです!

 

させられていないような状態を、させられる。

しなくちゃいけない、と思ってるなら、そう。

 

ややこしや!

 

だから、

自分で選んだはずなのに、なんで辛いんだろう。

に、なるのです。

 

例を挙げましょう。

 

家が散らかるのが嫌だから自分が片づければいいんだよね。
自分がきれいな部屋にいたいから自分で片づけるって聞いた。
だからそうしよう。

というのは、病むんです。
それわたし

だって、本当はこう思っているからです。

自分がきれいな部屋に居たいけど、散らかすのは家族だし、
家族が家事しないのは一体何様なんだ、
これでわたしだけが片づけていたら、わたしは奴隷ではないか!

背景の散らかり感ww

 

 

一見、目的は

①『きれいな部屋で過ごすこと』だけど、

実は、

②『家族にはチームとして協力してほしい』

も、入ってくる。

 

②について全く無視した手段を取ったので、

だんだんこれじゃない感が強くなり、

だんだん具合が悪くなっていくわけです。

 

自分が何を求めているのか、

そこをまず自覚しないと、そういうことになる。

 

『自分がきれいな部屋にいたいから、自分で片づければいい』

という情報をどこかで得て、

それをコピーしただけ。

自分の中にある思いとは一致していない。

それって結局、させられている感が出てくる。

自分で選んだのに、おかしな話だよ。

 

でもね、いいんですよ、

やってみたからこそ、

これじゃないってわかったから。

やってみてわかった、これはエラーだった、

それでいいんです。

大事なのは、正解を探し出すことじゃなくて、じゃあ、次にどうするか。

正解をピンポイントで見つけようとすると、

フリーズしたり、がっかりしたり、試せなかったりしますからね。

動いていればそのうち、変化していきますよ。

 

目的は 自分にしかわからないから

プライベートレッスンに来てくださる方にわたしが必ず聞くのが、

『何のためにそれをするのか』

なんです。

目的の自覚って大切だと思います。

 

立派な学者さんや、有名な本や、古代の哲学者や、カウンセラーの言うことが、

あなたのするべきことではない可能性は高いです。

一見正しそうに聞こえるから、厄介。

なぜなら他人は、

仮にあなたが置かれている状況が見えても、

あなたの目的までは知らないからです。

そして、あなたの目的がわかるのは、あなただけです。

 

なぜそれをするのか、なぜそれをしたいのか

そう自分に問いかける時間って、

必要だと思います。

もし難しければ、レッスンでお手伝いしますね^^

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