解けかけて凍った雪に 太陽の光が反射する。
大荒れの予報だったけれど空は晴れ。
山に登っては滑る。
ママ、空がきれいだよ。
すごいスピード出たね。びゅーんって!
息を切らせて山を登りながら、
なんだか楽しくなってくる。
もう、充分じゃないかなあ。
なんのために生きているかって、
こうして何気ない日常がメインなんじゃないか。
将来こうなりたいとか、どこへ行きたいとか、あれを手に入れたいとかじゃなくて。
それもたまにあったら楽しい。
誰かと一緒にいて、遊びを楽しんで、食べるものがあって、雨風しのげる家があれば。
日常の転がっている幸せ、美しさを、感じることができる余裕。
そういうことに必要なもの、収入とかモノって、
思っているより少ないのかもしれない。
むしろ、収入のために日常を犠牲にしているケースは多いだろうと思う。
本末転倒ってやつでは。
ウツで休職してしばらくたってから、
保育園の送迎で見る街路樹が、青々として美しくて、
空もとてもきれいで、
毎日通っていた道なはずなのに、
わたしはこの景色さえずっと目に入っていなかったと
そしてきっと子どものこともたくさん見逃してきたのだろうと
人生で見られる美しさや喜びを捨てるように通り過ぎてきた
仕事が忙しいという理由で
その仕事だって忙しさを理由に最初に抱いていた熱い思いも脇に置いて
わたしは一体何をしていたんだろう?
何も成していないのに失ったものがある
そう氣がついて
あのとき泣いたんだった。
・お金を稼ぐこと
・誰かの役に立つこと
・自分が成長すること
・何のために生きているのか
・自分の存在意義
ときどきゴッチャになる。
この数年、より自分の心身に意識が向くようになって、
普通に生きていくことだけで充分な学びになると感じる。
普通にって言うのもぼやけた表現だが
何かをして誰かの役に立つ、そのために生まれたわけでもなくて、
生まれて生きているだけでもう役目は果たしていて、
それ以上はおまけみたいなものよね。
わたしは誰かの役に立つことが楽しいから働く。
大きくなったら何の職業につくのかって幼い頃から聞かれて、
就職のために勉強して、ってやってきたからか、
自分というものを職業や肩書や収入でしか価値をはかれなくて、もがくけど。
今の世の中では生活するためにお金を稼ぐことが必要で、
そのために何ができるかという視点での進路選び、就職をして、
だから、本当にわくわくしてやってみたいことって何かということと、
もう子ども時代から乖離していたわけで、
それをそのまま今も拗らせているんだと思う。
仕事を辞めた自分をどこかで責めている。
家事育児とフルタイムの仕事を両立できなかった自分を、今もどこかで責め続けている。
そして、これからも雇われて働くつもりはないし、好きなことを学び続ける。
そう決めている自分にも、少し、罪悪感みたいなものがある。
でも本当に、生まれて生活しているだけでいいんだな。と、思った。
それでまず、もう、満点なの。
だってソリ滑りだけで
お日様の光を浴びるだけで
山を登るだけで
子どもと笑うだけで
こんなにも幸せな気持ちになるのなら。
そして、わたしがどんな仕事をしていようと、
稼ぎがどれだけだろうと、
この子たちは「ママと滑りたい!」と言うだろう。
そう考えたら、『わたし』って何だろう。
何を『しなくてはいけない』と思っているのだろう。
とても簡単なことだ。
今、してみたいことをしていて、わくわくもしている。
ひとつひとつ、したいことをしたらいいだけだよ。
この楽しさになんの苦労も努力もいらなかった。
そりゃあ夫は働いてくれているからっていう、そういうことじゃなくて。
たとえ夫が仕事を辞めて、収入が今よりすごく少ないとしても、
お日様の光はきもちがいいだろうし、ソリ滑りしたら笑うと思う。
ソリが買えなきゃ米袋かなんかで作るだろうし。