傷からの立ち直り方 コミュニケーションと感情

「暑い」

いやーほんと暑いです。

札幌で30度を超える日なんて1年にそんなにないので、

クーラーを買おうか今年もちょっぴり迷ったけど扇風機で凌いでいます。

 

ところで、

「暑い」

この一言は、文脈によって意味が変わる。

 

今日みたいな日に誰かと外に出たときの「暑い」は

やーほんと暑いねー、という感覚を伝えているだけ。

 

クーラーを買わないと家族会議で決めた直後の「暑い」は、

やっぱりちょっと考え直さない?の意味があるかも。

 

ヨガスタジオで、生徒さんが言う「暑い」は、

室内の温度調節してくれませんか、かも。

そんなつもりがなくて言ったことがあるわたし。動いて身体が熱くていいなぁと。
そしたらクーラーつけてくれて、あ、そういう意味になるんだ、と思った。
クーラー苦手なわたし。。。
いやいや、ありがとうございます、でもクーラーつけてほしいってことじゃなくて、
って説明して、あ、そーなの?と調整していくのが、コミュニケーションにおける学習かな。

 

熱中症になりかけのときの「暑い」は、

助けてほしいときの精一杯の一言かも。

 

「暑い」ひとつでも、状況によって、文脈によって、

意味が違ってくる。

 

コミュニケーションにおける文脈から来る意味付けの学習。

もっと簡単に言えば、

言葉や態度で相手が伝えようとしていることを、文脈を考えながら読み取ること。

それを止めたときに、ハラスメントが起こる。

 

昨日の記事
本でこんなに打ちのめされたのは初めてだ。

で、ハラスメントについて書いた。

 

ハラスメントは、誰にでも起こり得る。

わたしはハラスメントなんてしていない、

ともし思うなら、とんだ勘違い。

セクハラ、マタハラ、モラハラ、アカハラ、

わかりやすいのはいろいろあるけれど、
だから自分はハラスメントはしてないって思うけど、

ここでいうのはコミュニケーションにおける学習の破綻。

しかも、わざとじゃない、無意識、の場合がある。

でもわたしは思ったの。

ハラスメントを成立させない方法があるって。

それは、受け取る方が、ハラスメントとして受け取らないこと。

 

ハラスメントって、

例えば、わたしが、

何か伝えたときや受け取ったときに、

どう考えてもそうじゃないだろっていう反応が相手から返ってくる。

または、言葉や態度そのものから伝わるものと、その裏にあるように感じるものが、全然一致しない。

それでもわたしは、ああ、じゃあこういうことかな、って考えながら、

こんなこと言ってみたりあんなことしてみたりする。

そう来たか、それならこうかな、って。これが学習。

それでも、うまくいかない。

相手はもっともらしいことを言う。でもなんか違うんだよなーって感じるけど。。。

(相手はこっちの文脈や言葉なんて考えちゃいない。学習はしていない。)

それが続くと、わたしも、混乱して、

でも自分の感じることはあの人の言ってることと違うけどってあれこれ考えるのをやめて(学習をやめて)、

相手の言うがままになる。

わたしがそう感じることはおかしくて、相手が正しいんだ。

っていう構造。

 

さらにそういう状況が重なると、

自分の感覚、氣もち、感情なんかを、感じられなくなる。

外部の評価や、決まり、そういうところでしか見られなくなる。

自分のこともそうだし、他の誰かのことも。

 

だったら。

自分の感覚は何があっても守ればいい。信じていい。

ただそれだけだ。

 

そして、

コミュニケーションを諦めないこと。

でも、一方的なことばかり言う相手なら、無理なこともある。
その場合は、自分の感覚を否定せず、離れられる関係なら離れたらいいし、
離れられなかったら、、どうしよう。

 

それはハラスメントであるから、ハラスメントをするな、

って相手に言っても、無駄だと思う。

そしてそれこそがハラスメントなんですよ。

どうしてその相手がそういうふうになってしまったのか、

それまでの環境や経験やなんかが、

いーろいろあってのことだから。

良いことも、悪いことも、
そもそもその分け方だって疑問だけど

その人のそれまでのことの集積から来ている。

それを外側からどうこう言ったって、

本人が変わりたいと思わなかったら、

動きやしない。

 

それと、

ハラスメントって

どうしても立場の強弱によって起こりがちだと思う。

親と子、大人と子ども、先生と生徒、雇用主と労働者、お客と店員、多数と少数。

だからこそ立場によっては氣をつけなくちゃいけない。

でも一見弱い立場からもハラスメントは起こりえる。

だってコミュニケーションの問題だから。

コミュニケーションにおける学習をしない、っていうことで、仕掛けることができる。

ああ、このハラスメントの構造を理解すると、

攻撃方法として悪用もできちゃうなぁ。

 

特に弱い立場へのハラスメントは許されるものではないと思う。

その中でも、親子関係だったら、逃げるに逃げられない。

ハラスメントする側を止める方法は、

法的な罰以外に、
それもただ止めるだけで解決になってないとは思う

癒しも必要だとは思う。

そういうことに本人は氣づかない場合が多いだろうからどうしようもない。

 

 

それでもハラスメントを断ち切ることができるのは、

わたしが、わたしの感覚に意識を向けて、あるがままを受け入れること。

もし傷ついた過去があるとしても、

もう一度、感覚や感情を大切にしようとしてみること。

 

そして、

うっかりハラスメントをしかけちゃっても、

みんなが、自分の感覚に意識を向けてあるがままを受け入れることが当たり前なら、

悲しい構造は成立しない。

 

ポイントは

自分の感覚に意識を向ける

それがどんなものであれ、それでいい

ってことなの。

これはステキなことじゃない?

ヨガとボディワークを学んでいるわたしにとって、

この結論って、

うわー、すごい!なの。

わからんか、この興奮。

 

 

まさに今、しつけとしてとか、暴力とか、

すごく苦しい状況にある人もいると思う。

そんな人にとっては、

なに呑気なこと言ってんだ、ってことになるかもしれない。

でもさ。

すごく苦しい、もう嫌だ、って思っているなら、

そこから逃げる方法を探したらいいんじゃないかって思う。

苦しい、嫌だ、って思ってるんだもの。

でも、相手とわかり合いたい、仲良くしたい、って氣もちもあって、

それが叶えられないって辛いよなぁ。

その辛いっていう思いも、それで、いいと思うんだよね。

だって、そうなんだから。

逃げようがなくて従うしかない、そんなときも、形としては従っているけれど、

本当は自分はこう思ってるぞ、っていうところは、

心の中で強くもっていたらいいんじゃないかなって思う。

もし過去の自分がハラスメントの真っただ中にいたらって考えました。

どんなときも、自分の感覚に意識を向けて、そのまま受け入れること。

 

相手に何かされた、

それは、辛く苦しいことだけど、

もっとつらいのは、

そのときの自分の氣もちを自分で受け止めてあげられなかったこと、

かもしれない。

だから、後からでも、

そうかあのときこう思ったんだね、そう感じたんだね、って

ストンとそこに置いてあげるだけで

その思いの置き所ができてスッと昇華されるんじゃないかな。

 

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