歳を重ねた焦りと、ヨガの修行の意味がわからないこと

わたし、この人生で一体何を成したと言えるんだろう。

と、考えると怖くなることがある。

なんかずっと30代くらいで感覚が止まってる氣がする今日この頃。

のんびり暮らしているけれど

実際のところは40代半ば。

どこかの会社で働いていて一昔前なら60で定年退職

そうするとわたしの社会的賞味期限は約15年と少し。
表現があまり良くないことは自覚しています

残り15年…

大卒で就職していたならば勤続20年以上。

それなりに仕事ができるんじゃないだろうか。

そんなことを考えると

なんだか焦りに似たきもちになる。

わたし、一体何をやってきたんだろう?

 

勉強して

就職して

やっと慣れたころに妊娠出産

二人目の育休後復帰しても忙しすぎてキャパオーバーで病んで

退職して

主婦業が得意というわけでもないけど家に居て

心身のことに興味があり学び続け

三人目が生まれて

保育園のこともあり一応起業したことになってて

たまーにレッスンや施術をやっている。

 

何かを成した気がしない

であれば今から活動を大きくしたら満足できそうかというと

そういうわけでもない。

やった感、が欲しくて活動するのは違うのだろう。

だから、別に今のままでも悪くないのだ、きっと。

 

数日前、思ったことがある。

わたし、もう充分かも。

結婚したいと思う人と結婚できて

子どもが欲しいと思って授かることができて

毎日いろいろあるけれど特別困難な問題もなくて。

これって

欲しくても手に入れられない人だっているじゃない。

仕事がー、とか、経歴がとか社会的にとか経済的自立とか、

そういう目でみたらそれはなんかスカスカな氣もするけど

ベースとしての環境は

もう満たされているではないか。

確かにわたしが欲しかったものだ。

コミュニケーションができて暴力を振るわないパートナー。
というのがわたしの結婚相手の最低限の条件。

おまけに面白そうな人だったので、この人と子育てしたら楽しそうだなと思って。

子どもには優しさと自分自身を大切にしてほしい。

自分が欲しかった家庭、は、あるんじゃないか。

あれ、わたし、もう何も要らないかも。

あれしなきゃこれしなきゃって、何を不足に感じているのだろう?

  

ヨガを学んだときにね、

「もうこの世に生まれ変わらなくても良いように修行をする」

っていうことが

わたしにはどうしても腑に落ちなくてね。

わたし、別に、もう生まれ変わりたくないなんて思ってないんですけど、って。

わたしは

できることならまた生まれ変わっても

今の家族に会いたい。

例えば末っ子と眠るとき

その温かさと柔らかさといい匂い。

手を繋いで歩くときの小さな手。

そこらで摘んできて「ママにあげる」とくれたお花の色。

形や色の濃淡、透け感なんか見てると時間が溶ける

これだけでもこんなにこの世は美しく愛おしいのに

どうしてもう生まれ変わらないための修行なんてするんだろう?

そんなものは要らない、ってことでしょう?

この目で見える、この耳で聞こえる、この肌で感じられる。

肉体があるからこそ、抱きしめたり言葉をかけたり食事を作ったりできる。

子どもが小さいときなんて、ママママママママ、だ。

とにかくそこにママがいることが重要らしい。

ウツのときには死んでしまおうとしたわたしも

末っ子が生まれると

自分が死んでしまうことが怖いパニック症状に襲われた。

とにかく生きなければ。せめて授乳期だけは生きなくては。
でも後追い期は?
幼児期でもまだ寂しがるよ?
子どもを残して死ぬのが怖い。
そう思えるようにするために末っ子が生まれてきてくれたのかもしれない

数年苦しんでそこから抜けたあとには

生きていられることの有難さを感じるようになった。

肉体があってこそわかる優しさ、美しさ、喜び。

肉体を持たない世界の方がより良い何かがあるのだろうか。

そうだとしても、肉体を持っているこの世界では、

その何かより良いものがあるかどうかさえ理解できないのに

ただここから抜けてどこかへ、なんて。

そんなわたしは

この世界に縛り付けられた堕落した魂なんだろうかね。

 

ああ、わたし、この世に3人の子どもたちを産み出して

充分に創造できたんじゃないか?

もう何年も前のことだけど整体の先生は施術しながらわたしに言ったんだ

お子さんを産んだだけでもう充分なんですよって。

何もできないんですってドンヨリしてるウツのわたしにね。

あのときは全然意味が分からなかったけど。
でもこの人は心からそう言ってるっていうのだけはわかった。

産んだだけでもう充分な仕事。

そう考えるととても満たされたきもちになる。

産まない選択をした人や事情があって産めない人については
こういう発言はセンシティブなことなのかもしれない。
わたしはそこについては持論があるのだけど、、、
誤解無いよう書く自信が今日はないので書かない。
いつ書いても誤解はあるだろうけど~。

少なくとも、産まない人がダメだなんて微塵も思ってないよ。
   

ヨガ哲学も、一種の設定なんじゃないかって思う。

どの設定を選ぶかで

世界の見え方が変わる。

設定、という捉え方になったのはつい最近のこと。

すべては設定で、それぞれは層みたいなものなのだ。

その話は次回以降にしよう。

 

テキストのコピーはできません。