磨くということ、使えるということ

自分を磨きたくてすることと言えば

 

見た目を整えたり

心の安定のために学んだり

体を整えたりする。

 

確かに変わっていく自分を感じ

過去を過去として眺められるようになることは嬉しい。

未来が楽しみだと感じ

周りの人たちとの関係も以前よりずっと良好だ。

共に学ぶ仲間もいて

尊敬できる先生もいる。

 

ただわたしは思うんだ。

どんなにどんなに学んでも

抜き打ち試験のように試されることがある。

 

それは自分にとって心地よくない誰かが現れたとき。

 

こういうときに一番

学んできたことが試される。

 

たとえどんなに表向き繕っても

必ずそれは漏れる。

お天道様が見てるとは言うものだけど

何より自分が自分の行いを良く知っている。

良いことも悪いことも。
良いと悪いの判断はともかくとして。

 

その振る舞いをする自分のことが好きか。

それは美しいのか。

わたしはこういう考えでこういうことをしましたと

全世界に向けて堂々と言えるか。

いやもっとわかりやすいのなら

自分の大好きな人に自分のしたことを知られても平気か?

自分の尊敬する人に自分のしたことを知られても平気か?

わが子にも自分のしたことが知られても平気か?

人からどう思われるかという意味ではなくて

どこに出しても恥ずかしくない自分であるだろうかということ。

わたしの判断基準はそこ。

失敗も間違いもせずなんて生きられないけれど

自分で自分を穢さないように清く美しく生きたいとは思っている。

 

せっかくいただいた限りある命を使って

わたしは他者を傷つけることを望むだろうか?

自分を傷つけることを望むだろうか?

どうしたい?どうありたい?どうしたらいい?

 

そうして選び行動する強さを

少しずつ筋トレみたいに身に付けていくのだと思う。

強くなきゃ選べない選択肢もあるから。

 

学んでいるという環境に酔いたいのではない。

仲間がいて進んでる感じがして知識が増えていく

それだけじゃない。

そこに憧れている人が少なくないことは

ヨガを学んでいるときから感じてはいて

でもそうじゃないってずっと思っている。

日常生活に戻ったときに狭量な自分だったら

学ばなくてもいいと思う。

伝わる人には伝わるもの。

見抜ける人には見抜けるもの。

 

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