感謝が足りませんでした、と氣づいたきっかけ

誰にも言わないけれど、こういうことをした。

当然、そうしたことに関して、誰からも感謝も評価もされない。

氣づいてさえ、もらえない。

でも、そうした方がいいと思って、した。

ちょっと手間だったことも、

ちょっと困ったこともあったけど、

相手が喜ぶだろうから、

いや、喜ぶっていうか、

氣づかないんだから喜んだ感覚さえないんだろうけど、

それでも、そうした。

そんなことしたって、

報酬は変わらないのにね。

貢献した、と思うのだけど、

まるでそんなわたしなんて居なかったかのように進んで行く世界。

見えることには感謝されるけれど、

わざわざ見せなかったことはスルーされる。

でも、そこにこそ、シゴトのクオリティというものがある。

 

これは、愚痴を言いたいんじゃない。

 

わたしは、今まで、逆の立場だったんじゃないだろうか。

氣づかない間に心遣いやら氣遣いやらいただいてきたのかもしれない。

そうに違いない。してくれたこと全部になんて、氣づきようがない。

いろんな人から。知ってる人も、知らない人も。

それがまるで当たり前のように

与えられたことに氣づきもせず

当然感謝もせず

そのくせ足りないところにばかり目が行って

不満に思ったりしていたのかもしれない。

それでも与えてくれた人たちは

わたしに感謝されないことに怒りもせず

わたしが穏やかであることに良かった良かったと

ただ優しくそこに居る。

何て、深い、愛なんだろう。

 

 

たくさんの愛に氣づかずに来たけれど、そう考えると、無いわけがない。

わかりやすい『してくれたこと』『してあげたこと』が、栄養ドリンクだとするなら、

氣づきもしない『してくれたこと』『してあげたこと』は、滋味豊富な毎日のごはんのよう。

栄養ドリンクにはお礼を言うのに、

ごはんはあって当たり前、

みたいなことになる。

だけど、どちらがより自分を支えてくれていただろう。

栄養ドリンクなんてむしろない方が良いんじゃ。。。

ごはんよりも、水や空気の方がより当たり前だよね。

 

こうして優しいこころで主張もせずただ与えるということ、

特別感なく当たり前のようにそこにあること。

そのことによって何も見返りは必要ないと思うこと。
もうちょっと正確に言えば、必要ないとも思ってない。
そこはどうでもいいというか。

氣づいて感謝してもらうことは目的じゃないから。
相手がより心地よかったらいいなとか、そこだから。

逆の立場になって、わかった。

 

わたしは、

わかることにしか感謝してこなかった。

感謝するしないって、
お礼を言うかどうかって話ではなくて、
その有り難さに氣づくことができているかっていうこと。
すでにたくさん与えられているのに、
氣づきもせずに、なかったことにしているのだろうという、
そういう世界線が見えてしまった。

自分が感じられないものは、無い、なんて。
氣づくことができたなら、もっと豊かなんじゃないか。
もったいなさすぎる。

 

おかげさま、なんだ。

 

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