この世界は、ないのかもしれない。


まだ幼かったわたしは、そんなことを思っていたんです。

5歳か、それくらいの頃。

この世界は、ないのかもしれないって。

 

寝ているときにみる夢って、

見ているときはそれが現実だって思ってる。
夢だってきづく人もいるっていうけど

じゃあ、いま目が覚めていると思っていても、

それが本当の世界だなんて証拠はないでしょう?

もしかしたら

ママも、自分も、本当はいないのかもしれない。

おうちも、おもちゃも、本当はないのかもしれない。

頭の中だけのお話で、

本当は何もないのかもしれない。

だから全部消えてなくなってしまうのかもしれない。

じゃあ今毎日目が覚めて、

目が覚めるといつも同じ自分にママにおうちに、があるけど、

これって何なんだろう?

毎日遊んだり食べたり保育園に行ったりお仕事したりお話したり、

なんでそんなことをしてるんだろう?

今日寝たらもうないかもしれないのに。

 

そんな恐怖感を母に話しても、

何言ってるのと一蹴されるわけですが

ヨシタケシンスケさんの絵本をみるとそう言われた感覚を思い出す

 

その30年後くらいにヨガ哲学を学んで、

言ってること同じじゃーん!って思ったんですね。

世界は、見る人がいるからある、って。

見る人がいなくなったら、世界はない。

 

大きくなるにつれ、その感覚を忘れていったようだ。

ヨガ哲学でその話になったとき、

はっっっ!!!

と思うまで。

 

もしかして、わたしの感覚は、間違っていなかったのではないだろうか。

 

そしてこの感覚が合っているとしたら

現実世界での苦しみ、辛さ、悲しみ、

そういうのって、そこまで重要じゃないのかも。

同じように、喜びや幸せなんかも。

物質的ななんかや、

感情的な何かも。

だって、見てるからあるだけなんだもん。

見るのが終わったら、ないんだもん。

 

では人は何のためにこの世界に生まれるのか。

ヨガでは、

経験するため、学ぶため、魂の成長のため、らしい。

 

確かにそうかもって思う。

わざわざ苦しむために生まれるわけでもないし、

ただ難なく幸せを享受するために生まれるわけでもないと思う。

いろいろなものを経験する中で

何かが磨かれていく感はある。

そして成長するにはラクなことよりも辛いことの方が効果的で

でも苦労は買わなくても降ってくるからわざわざ買う必要はないと思う

ときどきご褒美のように喜びなんかがあるんだと思う。

 

 

幼い子どもの感覚って、何かまだこの世に馴染めていないすごいものがあるんじゃないかなぁ。

何度も繰り返し見る夢があった。

低い大きな音がなって、よくわからないいろんな生き物が並んで歩いてた。

とても怖かった。本当に何度も見たんだ。

低い音の振動が自分にも響いて、

大人のわたしが表現するならそれは『畏れ』だ。

あの行列が、良いものか悪いものかはわからない。

好きではなかった。自分とは違うものだった。

 

 

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