親子でヨガの活動をわたしは辞めました。
必要な活動だとは今でも思っています。
あんなに質の高くて笑える親子でヨガレッスンは無いと思う。
3人のレッスンを続けたいという仲間には申し訳なく思う。お詫びのしようがない。
でもわたしが伝える、という熱が、全く、なく。
それはわたしが、親とのトラウマを(ほぼ)解消したからかもしれないと、思っています。
傷から選んでいる仕事ってあるんじゃないか、と以前にブログに書いたことがあります。
傷とライフワークという記事です。もうこの頃から違和感があったんだな。
まるで他人事のようだけど、実際他人を見て思ってたことだけど、今となっては、それ自分ね!
消えてしまったんです、本当に。
親子、スキンシップ、コミュニケーション、そういう分野に、悩んでいる人はいるのかもしれないけれど、そういう人に対しても、わたしは何も感じなくなってしまった。
うんうん、大変だろうけど、まあ結局自分を何とかして行ったら大丈夫だよ、って。
やる気のないわたしは、もはや推進力など無く、行動を起こせなくなった。
もう一度福島に行こう、そう話が出たとき、
時間、お金、家族の理解、そういうことを「よっこらしょ」っとして進もうと思えなかった。
戸惑いました。そんな自分に。
声かけてくれた人も仲間も楽しそうに「いつやる?」って話しているし、仲間といることは楽しいし、イベントもきっとやれば楽しいし、でも自分が行かないと言ってしまえば終わりになってしまう。なのにもうわたしには熱がなくて、そこに使うさまざまなリソースを他のことに使いたいと思ってしまう。。。どうしたらいいんだ。。。人のきもちか、自分のきもちか。あああ飛行機の早割期限が、、、みたいな状況。
嫌だとか、どうでも良いとかじゃなくて。
見えないんです。
問題として見えないというより、わたしの世界ではその事象が存在として見えない(伝わらんか)。
だから解決しようとも思えない。何とかしようと思えない。
心が動かない。
仲間との時間が好きだったから辞めたくなかったけど。来年度のレッスンの依頼もすでにあった。
でもわたしには、もう、空っぽという感覚しかなくて。たぶんつまらなそうにしてしまう。そんなのは、参加してくれる人に失礼よね。
親に愛されていないと思いながら育ってもいい。
子どもを心から愛せないと思っていてもいい。
思いが思ったように伝わらなくてもいい。
ハグができなくてもいい。
会えなくてもいい。
それでもそこには大切な思いがあるから。
希望通りのカタチじゃないかもしれないけど。
そしてそれは必要な経験だから。
氣づく、は、その人、本人にしかできないから。
あるとかないとかじゃないんです。
氣づけば、そこに全部ある。
自分のトラウマと向き合って、行動して、思った。
わたしはやっぱり、自分の子ども時代に引っ掛かりを感じてこのシゴトをしていた。
伝え合えば。ハグをすれば。痛みがなかったら。別の世界があったのに。
確かに、そうかもしれない。
でもわたしには、子ども時代の傷なんてそこはもう手遅れで、
でも、あるときその世界をストンと自分の中に置けたんです。
表現が難しい。
カラダをととのえながら、できる行動をしていったら。
あ、もういい。って思った。
昇華した瞬間だったのかも。
ただ、自分をととのえていけばいいだけのことなんだと。
原点。
周りは何も変わっていないのに、見える世界が変わる。
どんな状況が来ても乗り越えられるカラダがあれば。
何もかも味わってやるくらいのことでいい。
寂しさも悲しみも美しい。
悩みは解決しようとしなくていい。悩みにフォーカスしなくていい。
悩みの種を消すのではなくて、悩まなくなる自分になればいい。
そうしたら状況も変わるんです。
ただただ、自分と向き合うこと。
それで前に進んで行ける。
今のわたしはそう思います。
それが正しいのかはわからない。でもわたしはそう思う。
そのとき子どもと一緒である必要はないんです。
横に転がしておくか、好きに遊ばせておけばいい。
親子で楽しくただ遊べるのもいいけれど、それをわたしがしたいかと言うと、違う。
わたしがしたいのは、エンターテイメントではなく、よりラクにたのしく生きるためにお手伝い。
わたしもそんな旅の途中ですが、
少し後から歩き出す人や、並んで歩きたい人がいれば、
しなやかに強くなるお手伝いをしていきます。
マニュアルを教えるでも、コントロールするでもなく、ガイドです。