傷とライフワーク②


親子でヨガの活動をわたしは辞めました。

必要な活動だとは今でも思っています。

あんなに質の高くて笑える親子でヨガレッスンは無いと思う。

3人のレッスンを続けたいという仲間には申し訳なく思う。お詫びのしようがない。

でもわたしが伝える、という熱が、全く、なく。

それはわたしが、親とのトラウマを(ほぼ)解消したからかもしれないと、思っています。

傷から選んでいる仕事ってあるんじゃないか、と以前にブログに書いたことがあります。

傷とライフワークという記事です。もうこの頃から違和感があったんだな。

まるで他人事のようだけど、実際他人を見て思ってたことだけど、今となっては、それ自分ね!

 

消えてしまったんです、本当に。

親子、スキンシップ、コミュニケーション、そういう分野に、悩んでいる人はいるのかもしれないけれど、そういう人に対しても、わたしは何も感じなくなってしまった。

うんうん、大変だろうけど、まあ結局自分を何とかして行ったら大丈夫だよ、って。

やる気のないわたしは、もはや推進力など無く、行動を起こせなくなった。

もう一度福島に行こう、そう話が出たとき、

時間、お金、家族の理解、そういうことを「よっこらしょ」っとして進もうと思えなかった。

戸惑いました。そんな自分に。

声かけてくれた人も仲間も楽しそうに「いつやる?」って話しているし、仲間といることは楽しいし、イベントもきっとやれば楽しいし、でも自分が行かないと言ってしまえば終わりになってしまう。なのにもうわたしには熱がなくて、そこに使うさまざまなリソースを他のことに使いたいと思ってしまう。。。どうしたらいいんだ。。。人のきもちか、自分のきもちか。あああ飛行機の早割期限が、、、みたいな状況。

 

嫌だとか、どうでも良いとかじゃなくて。

見えないんです。

問題として見えないというより、わたしの世界ではその事象が存在として見えない(伝わらんか)。

だから解決しようとも思えない。何とかしようと思えない。

心が動かない。

仲間との時間が好きだったから辞めたくなかったけど。来年度のレッスンの依頼もすでにあった。
でもわたしには、もう、空っぽという感覚しかなくて。たぶんつまらなそうにしてしまう。そんなのは、参加してくれる人に失礼よね。

 

 

親に愛されていないと思いながら育ってもいい。

子どもを心から愛せないと思っていてもいい。

思いが思ったように伝わらなくてもいい。

ハグができなくてもいい。

会えなくてもいい。

それでもそこには大切な思いがあるから。

希望通りのカタチじゃないかもしれないけど。

そしてそれは必要な経験だから。

 

氣づく、は、その人、本人にしかできないから。

あるとかないとかじゃないんです。

氣づけば、そこに全部ある。

自分のトラウマと向き合って、行動して、思った。

 

わたしはやっぱり、自分の子ども時代に引っ掛かりを感じてこのシゴトをしていた。

伝え合えば。ハグをすれば。痛みがなかったら。別の世界があったのに。

確かに、そうかもしれない。

でもわたしには、子ども時代の傷なんてそこはもう手遅れで、

でも、あるときその世界をストンと自分の中に置けたんです。
表現が難しい。

カラダをととのえながら、できる行動をしていったら。

あ、もういい。って思った。

昇華した瞬間だったのかも。

 

ただ、自分をととのえていけばいいだけのことなんだと。

原点。

周りは何も変わっていないのに、見える世界が変わる。

 

どんな状況が来ても乗り越えられるカラダがあれば。

何もかも味わってやるくらいのことでいい。

寂しさも悲しみも美しい。

悩みは解決しようとしなくていい。悩みにフォーカスしなくていい。

悩みの種を消すのではなくて、悩まなくなる自分になればいい。

そうしたら状況も変わるんです。

ただただ、自分と向き合うこと。

それで前に進んで行ける。

今のわたしはそう思います。

それが正しいのかはわからない。でもわたしはそう思う。

そのとき子どもと一緒である必要はないんです。
横に転がしておくか、好きに遊ばせておけばいい。
親子で楽しくただ遊べるのもいいけれど、それをわたしがしたいかと言うと、違う。
わたしがしたいのは、エンターテイメントではなくよりラクにたのしく生きるためにお手伝い。

 

わたしもそんな旅の途中ですが、

少し後から歩き出す人や、並んで歩きたい人がいれば、

しなやかに強くなるお手伝いをしていきます。

マニュアルを教えるでも、コントロールするでもなく、ガイドです。

 

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