人間関係のいろいろって、元を辿れば過去の傷で、どうしたいかっていうのは愛でしかない。

自分の満たされなさは自分でないものに投影したり、

自分より弱き者に圧力をかけることで、

何とか生きていく。

のだとしたら、

わたしはそんな生き方はイヤだ。

 

だけどよく起きるトラブルってそういうことだらけだ。

たとえば、わけのわからない決まり。

それが嫌だったのなら、他の人や次の世代に引き継がなければいいのだけれど、

そうすると、

自分の過去は間違っていた、他の方法があった、

ということを認めることになり、

そしてやっとこさ肯定してきた自分の周りの人々のことまでも
やっぱりあれは酷いことをされたんだと
認めなくては筋が通らなくなる

過去に味わうはずだった感情が溢れ出すことになるので、

たいていの人はそんなことはしないのだ。

 

だから

自分と向き合うよりも、

自分より弱いもの、

部下や子どもや孫や優しい人に

世界観を押し付けるのだ。

ほら、わたしの世界、間違ってないでしょ、って。

社会とは、生きるとは、こういうものなんだ、って。

その方がラクだから。

そうしないと、自分が壊れそうになるから。

無意識のうちに。

 

テストで満点を取らないと褒めてもらえなかった、

志望校に落ちた、

でも行事や発表会のときにはいい服を着せてくれた。

やっぱり自分は愛されてるってことでいいよね。

と思うことにしていたら、

他人に対しても

テストの点数や進学先や就職先、結婚相手のステータス、

見た目、服装、

そういうところの価値(価値なの?)を見るし、

イベントのときにはいい服を着せるのが愛で、

それが喜んで当然だろうと思う。

親の言うことを聞いて親を喜ばせるのが当たり前で、

あなたを思ってしてくれたことなんだからありがたく受け取りなさいとも言う。

大好きなお母さん、大好きなお父さんだから、

まさか自分に酷いことをしていたなんて思うことができない子どもは、

それが普通で当たり前、と思い込んでいき、

やがてそのまま大人になる。

 

ねえ、でもそれ、

自分がしてきたこと、させられてきたことなだけでしょ。

もし嫌なんだったら、引き継がなくてもいいのよね。
嫌だって感情も抑圧してるだろうけど。

本当はどうしてほしかった?

テストの点数なんてどうでもよくて何だってあなたが大好きだよって、

自分のきもちを大事に好きに生きてごらん、たくさんの可能性があるよ、って

抱きしめてもらっていたら、

どうだったろう。

頑張らないと大変なことになる、じゃなくてさ。

 

長く生きるほどそうした時間も長かったのだから、

すっかりしみついてそれが剥がせるものだと思いつきもしない。

 

一生懸命頑張ること、努力することがいいこと、

そう信じてきたから。

失敗はいけない、言うことは聞かねばならない、、

 

もういいんだよ、そんなことしなくたって。

 

そうしたら、次の世代に変なバトン渡さなくてもいいのに。

 

どこかで、切らなきゃいけない、その連鎖。

 

切るためには、自分が強くなくてはいけない。

本当にうんざりするし暗く沈む。

夜の海みたいだ。

 

どうしてそう思うの?

いつからそう思うようになった?

誰に言われた?

何のためにそうするの?

あなたは何をしたくてそうするの?

ずっと問うていく。

 

わたしの問いに、

最後まで答えてくれた人は、まだ一人もいない。

何人かに試したけれど。

厳しい、って言うか、わからない、って言うかだな。

そんなに難しいことじゃないんだけど。

ココロのひっかかりさえなければ。

だって、「わたしは何のためにそれをするの?」っていうのを

見つけるだけなんだよ。

自分の中にあるのに。

 

自分にも問う。

引っ掛かりばかりなので

ココロ折れそうになる。

時間もかかる。

もうやばいわと思ったら、人の手も借りる。

少しずつ宝石を集めるように、

ああそうだったんだ、って思う。

一つずつ、色眼鏡が取れて、癒されていく。

デトックスみたいなものだ。

わたしは、何のために、そうしたいのか。

ずっとずっと、問い続ける。

問い続けた先には、言葉にならない温かさがある。

愛とか安らぎとかってこういうのなんだろうか。
なんか違う

 

自分が癒され満たされていたら、

他人に何かを押し付けることはなくなるんじゃないかな。

心から相手のことを思えるようになるんじゃないかな。

それも自然に。

相手もいろいろ抱えてきての今なんだ、ってわかるし。

だから、

大切にしたい人がいるのなら、

まずは自分。

 

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