餃子アップルの途中で怒りんぼに遭遇/傷ゆえの反応はさらに自分を傷つける


餃子アップルに行く途中の

素敵な器をたくさん並べていた雑貨屋さん。

そこでカップを選んでいたらしい女性。

年のころは、わたしの親くらいかな。

お店のお兄さんに

「持ってったら走って追いかけるから!」

と言われつつ「大丈夫よ」と

路面店である店の外に二つのカップを持ち出して、

眺め始めた。

ああそうか、お店の中の光じゃよくわからないよね、

こんなに素敵な焼き物を選ぶんだもの、

遠慮なくこうして選んだらいいんだわ。

と、そう思いながら、後姿を見ていた。

 

そこで、

ひとりの仲間が

「ほら、こうしてお店の外でじっくり選んでもいいんだよ」

みたいなことを言ってニヤニヤした。

うちが作家さんの食器なんて買わないことを知っていて、
だって家族が割ったらわたしキレちゃう

しかもみんな旅先で

まあ買わないであろう状況なのに

要するにふざけているのだ。

いや買わんて

と言おうとしたそのとき

女性が

「ええっ?なんでそんなこと言うの、ただ見てただけじゃない、いいじゃないの腹が立つわなんでそんなこと言うのコイツ何なのもういいわ」

とか何とか怒り出して、カップを返しに行ってしまったのである。

言葉を向けられた当の仲間は、ごきげんでフラァっともう消えている笑

 

それを見ていた他の仲間とわたしは呆然。

 

え、あの人なんで怒ったん??

ていうか怒ると他人をコイツ呼ばわりするとはすごいな
すてきなカップを選ぼうとする心があるのに、言葉の選択は酷いな

 

女性は、

自分が責められたと感じたのでしょうね。

 

でも、

誰も彼女を責めてはいなかった。

 

これって、何が起こったと思いますか?

人ってこうして苦しむんだなって、
よくわかる象徴的な出来事だわ。。。

 

 

世界は、自分が見ているんです。

 

ひとつの出来事でも、

自分が受け取ったようにしか、見えない。

 

何てことない出来事でも、

自分が責められたと感じたなら、

それは自分が責められた事件。

 

誰かに遠慮せず真剣にモノを選ぶ態度を見せてもらった、

この人いいな、

と思ったわたしもいるのにね。

 

責められた、なんて思わなかったら、

彼女はあんなに怒らなくてもよかった、

あんなに嫌なきもちにならなくてよかった。

人に悪態つくこともしなくてよかった。

素敵なカップも手に入れられたかもしれない。

 

どうして、責められたって思ったんだろう。

それは、

きっと、

責められたことがあるからだよ。

そのときの傷が癒えていない。

またあのときと同じパターンだ、って、

勝手に反応してしまうんだ。

 

だから、

その過去の自分のきもちにまで遡って

今だから見える状況をもう一度整理して、

そのときのきもちをもう一回しっかり感じて、

そしてそれは感じてもいいものだと受け入れて。

そのとき自分を傷つけた相手のことも、

自分と同じように傷があるからこそそうなったってことを、

なんかちょっと嫌だけど認めて。

 

そうしたら、

きっともっと心が柔らかくなるし、

変な色眼鏡なしに出来事を見られるようになる。

 

それが、自分を救う方法。

もっと楽しく生きる方法。

人に心から優しくなれる方法。

 

わたしはそれを何個もやってきたから、

起こる問題は自分の中の問題なんだってこと、

よくわかる。

何回もやってると、いい加減、わかる。
またか!まだわたし傷抱えてたか!って。

どれだけ人のせいや環境のせいにしていても、

よーく見ていくと、

自分なんだ。

自分が悪いっていう意味じゃない。

自分が傷ついていたから、そういう見方しかできなかった。

そういう見方をしても幸せじゃないのなら、

きっかけとなった傷ごと手放すという選択がある。

そう考えると、

起こる問題は、

傷を癒し手放して新しいものの見方を手に入れる

大きなチャンスなのよね。

 

 

そんな話を

わたしはあの女性にはできなかったけれど、

わたしとご縁のある人々には、

伝えて行こうと思う。

 

心や身体に

何か違和感やトラブルがあるときは、

自分をアップデートするチャンスだよ。

 

餃子アップル

優しそうなお顔のご夫婦でした
、、、夫婦だと思う

おいしかった、ごちそうさま

全然話に関係ない笑

でもここへ行こうとしなかったら、

こんな氣づきの出来事はなかった

仙台って餃子なの??

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