飽きてきたなこの話
オイッ!
言葉にできないことってたくさんあるんですよ。
らーらーらー、ららーらぁー←わかったら若くない
いやそれこそ、
らーらーらー、で表現できる何かもある。
同じのは、
北の国からですよ。
あーあー、あああああーーーあ
で、何を表現し
何を感じ取るか。
ますますわからない?
んーんーんんんんんーーーー
そこに言葉は要らないわけですよ。
言葉にならないけど何かある。
俳句とかそういうのって、
もう、言葉だけでどれだけ世界広げるの、っていう芸術だよねぇ。
古池や蛙飛びこむ水の音、なんて、
言葉にしていないことがたくさんあるのに、
その風景や心情や、どうして浮かんでしまうんだろう!
わたしは、
言葉じゃなくて、
色で浮かんでくることもある。
人の印象とか、感情とか、場の雰囲気とか。
温度もあるかなぁ。
形もあるかもしれない。
音、は、めったにない。
自分の心の中がわからなくなったとき、
初めはやっぱり言葉を使って捜索する。
でも、それだけでは取りこぼしてしまう部分があるから、
静かに感じるということも使う。
浮かんでくる記憶
そのときの思い
身体の反応、苦しさ、緊張、温度、呼吸
それを感じて終わることもあれば
また言葉にしてみることもある。
ボンヤリしたものに
ちょこっとメモした付箋でマークをつけていく感じ。
誰かの言葉に触れることで
自分の中のボンヤリしたものにピッタリな付箋が見つかることもある。
そうするとそれが第何章かの小見出しになったみたいに
スルスルと何かが見つかることがある。
だからわたしは読書が好き。
知識を得たいというより自分の中の言葉探し。
聴くのは得意じゃないけどYouTubeも聴く。
年末くらいからマドモアゼル・愛先生にドはまり中。
そして
わたしが言葉を紡いでアウトプットするのは
自分の心の中を探検した結果
誰かのストーリーに繋がることが楽しいから。
それが、自分の知らないところで起こっても、いい。
全然構わない。
なのに、楽しい。
初めに言葉があった、のは、本当なのかなぁ。
モヤモヤは最初からあって、
そこに言葉をつけて拾い上げることで存在に氣づいて、
存在に氣づいたから感じることができて。。。
『存在のために』初めに言葉があった、っていうことかな。
見えない世界はまた別の話なのかも。
ある、ない、の話だと。
言葉は万能ではないけれど、
言葉で考えることを放棄してはいけないと思う。
理屈で考えるときに言葉は必要だから。
感覚だけで動いていると、
不安よりも不幸を選ぶ結末が待っているように思えてならない。
今、多くの人々は、
不安から逃れるための選択をしている。
させられている、か。
理屈が通らないことにも氣づかず、
煽られるままにその不安を自ら飲み、
増幅させ、他人にも強要する。
それが先の不幸に繋がることが見えないのか。
目先の不安を解消することばかりに躍起になって。
大切な人のことさえも心身共にダメにしてしまうことが、
どうしてわからないのか。
言葉で考えて、
最後には、感覚で選ぶ。
そうしたら、今みたいな流れにはならないはずだ。
でも感覚が研ぎ澄まされていなかったら無理よね。
言葉は真実とは限らない。
そこにある言葉だけを信じてしまえばそれが世界になる。
嘘でも言える言葉
見えないものに付箋をつける言葉
理論的に考えるための言葉
言葉で人を殺すこともできる。
でも言葉が命綱になることもある。