言語化について②言葉は不完全


言語化することで

「わたしそう思ってたんだ!」氣づきはあるけど、

そこから深掘りしていくといいと思う、

っていう話が前回。

言語化について①きっかけでありゴールではない

今回はその続き。

言葉が万能かって言うとデメリットもあるんだよね、

って話になる、予定。

 

言葉は完璧ではない

言語化するにあたって、

大きなデメリットが3つある。

 

①言葉では掬いきれない

頭の中を言語化するって、

内言語と外言語のあいだ

みたいなんだよなぁ。

冷静と情熱のあいだではない
小説を読んで映画も見てイタリアにも行ったが
いやぁ世界観が美しくてハァァ
とても無茶な、計画なんてあってないような旅だった

 

すごくザックリ説明すると、

内言語は、頭の中で考えてるときの言葉ね。

外言語は、伝えるときの言葉ね。

 

だからそれを、

頭の中のふんわりしたのを、

言語として取り出すには、

外言語的なことになるんだけど、

 

言葉って、

人によって定義も違うし、

辞書的定義があるにしてもそこに思いを全部は込められない。

 

赤、

って言っても人によって思い浮かべる赤は違う。

絵の具の赤、書道で使う朱色、青みがかった赤、

光としての赤、血の色だって鮮血から黒っぽいものもある。

 

肩、

って言っても人によって思ってる肩って違う。

ねぇ、肩を触ってみてください。

そこ、肩たたきの場所?それとももっと首側?

脇の下から手を入れて肩甲骨あたりを触る人もいる。

肩峰あたりかもしれない。
肩先ね。

骨盤を触ってくださいって言ってるのに
骨盤じゃないところを触るのはまた別の話だけど、
その人の世界では骨盤はそこなわけで。
その人に、骨盤を傾けます、って言っても通じないに決まってる。
だからその人の世界を知るのは大事だ。

 

何かで書いたと思うけど、

わたしは夫に好き好き言いません。

夫は好き好きうるさいです。

一休さんの歌かと思う。

なぜ好きって言ってくれないのか、

言葉がなければきもちがないのと同じだ!

って、大学時代にかわいい喧嘩をしたことがあるんですけど、

別にわたしは好きじゃないわけではなくて。

好き、という言葉に、

自分のきもちを集約できるとは到底思えなかっただけ。

好きじゃなくても好きっていう人だっている。
言葉の危うさ。

でも、

好き好き言って伝えるのが嘘だとも思わない。

 

まー、

何を言いたいかっていうとね、

言葉にしてしまうことで、

取りこぼされてしまう部分がある

っていうこと。

 

取りこぼされる部分があるからどうするか、

っていうのは、

また後で書きます。

 

②言葉には余計な情報が入る

 

言葉では取りこぼしてしまう部分がある、

というのがこれまでの話だけど、

取りこぼすどころか

余計な概念も入る場合がある。

 

たとえば。

 

『お父さん』

 

この言葉で、浮かんでくるイメージは何ですか?

 

これまた、人によって全然違うわけ。

 

・優しくてふんわり

・楽しかった思い出

・安心感

・大きな背中

・力持ち

・温かさ

・だっこ

・おみやげ

・笑顔

・スーツ

・作業服

・暴力

・不機嫌

・夫婦喧嘩

・緊張

・疲労

・病気

・寂しさ

などなど。

言語化して掘り下げて、

何か引っかかるものが『お父さん』だったとするじゃない。

そうしたら、

お父さんの何が引っかかるんだろう、

って考えたい・感じたいんだけど、

例えばわたしはお父さんに対してマイナスイメージばっかりあるので、

暴力、とか、恐怖、とかに引っ張られ、

最終的に寂しさ、に行きついてウンザリする。

でもそれは、

本質じゃない。

もっと深いところに行きたい。

なのに、言葉が邪魔をする。

楽しい思い出だってあったはずだし、

その経験で自分は何を見せられて何を学べば終わるんだろうって、

そういう方に向かいたい。

ただの『お父さん』にだって、

これだけ余計な後付けの概念がくっついているのに、

わたしたちはどれだけの言葉を使っているだろう。

言葉はうまく使わないと、

ロックされるだけになる。

 

もう一つ。

『がんばる』ってどんな?

・前向き

・無理矢理

・疲れる

・一生懸命

・克服

・夢をかなえる

・たのしい

・部活

・受験

・させられる

などなど。

「なんかわたしがんばれない」

そういうときに、

自分にとってのがんばるの意味が

わからなくなってることがある。

がんばらなくていいことなのかもしれないし、

目的がはっきりしていないだけなのかもしれない。

がんばるということにトラウマがあるのかもしれないし、

がんばらなくてはいけないという洗脳なのかもしれない。

 

③言葉にすることで本当のような氣になる

これ、最近よく思う。

ズバッと言い切られると、

そうなんだー、って思ってしまう。

自信満々に、言い切り断定の文で言われると。

 

わたしはここに、

「って、○○さんは考えている」

ってつけるようにしてる。

 

わたしがそう思うかは別。

参考にはする。

 

でも、

国とか有名人とか自分が信頼してる人とか専門家とか、

に言われると

そっかーって思っちゃうよねぇ。

 

「それは自分で確かめたことなのか?自分で見た?」

ってよく言う人が居るんだけど、

その人もいろんな情報をくれて、

だからこうだよね、って教えてくれるけど、

結局それも、

わたしにとっては2次的なものになっちゃってる。

その人が調べて、見て、考えたんだろうけど、

わたしの考えではない。

矛盾してるよねーって思いながら冷静に見てる。
わたしも調べるのは好きなので、
調べているうちに、その情報ソースらしきものに出会ったりして、
なんだかなぁと思う。
まるで自分の考えみたいに思っちゃうけど、
それは結局自分で真実を確かめたわけじゃない。
言葉としてそういう情報があった、だけ。
言葉としての情報を知っただけで、真実が何かはわからない。

 

言葉って、

ほんとうに不思議で奥深い。

 

で、じゃあどうすんの?

っていう話は、また次回!

 

 

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