自分を満たす小さなことを意識的にしながら母業について考える

今年もウニスパを食べに行った。

ひとりで。

 

ひとりで、食べたいものを食べる。
去年の夏にやってみた

年に一回はそうしようと。
最低でも

 

わたしがもし

独身でもっと自由だったなら?

 

ときどきそう考える。

もっと〇〇ができたのに。

もっと~なのに。

 

それ、本当?

それ、もうできないの?

いや、できるでしょ?

自分がやらないだけでしょ?

 

というものの一つ

スカートはいて

外出して

レストランで

時間も他者もお金も氣にせず

食べたいものを食べること。

 

小さいこと

なんだろうけど。

 

家族のせいにして

人のせいにして

社会や政治のせいにして

つまらない人生にはしたくない。

 

じゃあ

できるなら何したいの?

そう自分に聞いてみる

そして

よっぽど無理なことでなければ

そうしたらいい。

 

小さなことで拗ねてないでさ。

 

夫が苦労して働いている時間に良いのだろうか?

わたしの稼ぎは多くないのに良いのだろうか?

 

じゃあ

夫が苦労しているから自分も我慢したら、、、
楽しく働けない夫のせいなのか
申し訳ないきもちを感じたくないと思ったのは自分なのに
夫のせいにしてモヤモヤするなんて

稼ぎが多くないから自分の食べるものも節約第一だったら、、、
どうせわたしは、なんていうのをご飯のたびに思うのか
外に稼ぎに出ないのは自分の意思なのに。
家庭のことをしていて直接お金を生み出してない
だからわたしには好きなものを食べる価値もない
という考えが色濃いのは何より自分なのでは

家族がいるから自分の用事で出かけることが難しい
何だよそれ
優先順位を自分のしたいことより家族にしただけで
それが四六時中その設定のままなだけ

そうやって不満なんでしょ?

 

それでもわたしはわりと前衛的な方で

上の子たちがまだ保育園児だった10年以上前にも

ヨガイントラの資格を取るための講座に泊まりで参加していたし

夜にレッスン受けに出かけたりもしていた。

今だって

行きたい勉強会があれば土日だろうが出かける。

そんなわたしでもまだ

なんか妙な引っかかりはある。

これは自分の価値観ではないし

夫の価値観でもなさそうなのに

勝手に取り入れてウジウジモヤモヤする何か。

  

今年はコーヒーだけでなくガトーショコラもつけたった。

 

そして

これからしていきたいことのひとり作戦会議をした。

 

拗ねていじけてるヤツに何が生み出せるってんだよ。

この要らぬ皮か殻か知らんけど、絶対に取り去ってやるからなっ。

おかあさん、という役割

それは

そんなにも重く不自由なものだろうか?

もちろん夫や我が子たちのためにしてあげられることは

したいとは思っている。

もう一度人生をやり直せるとしても

きっと結婚したいと思うだろうし
でも事実婚で良いなとも思う

可能であれば子をもつことを選ぶだろう。

なのになぜ

ときどき手枷足枷みたいな感覚に襲われるのだろう。

わたしの自由を奪うもの

もし独身だったならもっと自由だったのに、、、?

 

小学校1年生の国語のプリントに

包丁を持って調理をしている女性の絵があって

その絵の下にマスが5つ。

そこに入るひらがなは?

「おかあさん」

 

わたしはこの問題に「へぇー」と思ったのである。

お母さんは家でごはんを作る人なんだなぁ。

たしかに幼いころにしたおままごとなんかでは

お母さんになるとお料理や赤ちゃんの世話をした。

それにしても

料理をする女性を見て

この人はお母さんなんだ

とスルッと思ってしまう自分に

おおおおお、と思ったのである。

わたしの小学生時代はまだ昭和や平成の初めで

将来の夢は「おかあさん」って書く子がいた。
わたしは幼稚園の先生って書いた氣がする

お母さんって、何なんだろう?

わたしは、子どもを産んで、家事するんだね、というイメージだ。

旦那さんが帰ってきたら「お風呂にする?ご飯にする?」って聞くのだ。
志村けんといしのようこのイメージだ

その子は何を夢見ていたのだろう?

子どもを産めばお母さんだ。

産まなくても、里子をもらってもお母さんだ。

おっぱいからの授乳は女性しかできないけど
哺乳瓶でだって飲ませることはできるし

子どもの保護者的な役割で女性なら、お母さんか。

それだけじゃん。

料理、洗濯、掃除、育児、

その他項目にならない家のこと
子どもの下校時刻には家にいるとか(不安がるというより防犯のため)
子どもの話を聞くとか
水筒の用意が間に合わない日のためのお茶のペットボトルを買っておいてあげるとか

そういうのするのがお母さん

なんてどこの誰の決まりなんだろう。

最近なんてこれに「外で働く」まで追加されつつある。

共働きは当たり前。

…ん?どこから来たの、これ?

この役割っていうの

勝手すぎない?
(;・∀・)

これってさ

各家庭で決めればいいことじゃない?

いや、そうだなとはたぶん思ってたけど

今なんか改めてしっかりそう思った。

 

ボーっとして生きてると

こういうふうに、それが当たり前だから、って流される。

でも漠然とした不満の存在に氣付いて

なんで?どうして?って考えると、

ハッとすることがある。

でも

ハッとされては都合が悪くなる人もいる

だから

考える力を奪う

ああ、またこの流れか~。

 

まずは自分の感情に氣付くこと

それは誰が決めて誰がしていることか

分析すること。

自分はどうしたいの?

じゃあどうしたらそうできるの?

単純なこと。

 

なんかさ、

いーーーっつもお母さん、だと飽きるんじゃないかな

って氣はしてる。

おかあさん、のタスクが多すぎて

それ選んじゃったら他の選べませんみたいな

そんな窮屈さ。

そして、母業に胸やけする感じ。

母業そのものが悪いんじゃなくて

やっぱり自分がヘタクソなんだと思う。

自分の、母業の扱い方が、ヘタクソ。

ってことは

自分で改善しようがあるっていうこと。

 

だから、まずは、ひとりで美味しいものでも食べに出かければいいんだよ。

お母さんたるもの、これはダメでしょ、と思う小さなことから

壊してみる。

なんだ、大したことないじゃん。

そしてむしろ、ご機嫌になって

家族にも良い影響しかない、

なーんて。

 

授乳期の記憶を思い出す。

授乳しやすい服しか着られず
髪の毛は抜けて薄くなり
常に寝不足で
抱っこ抱っこで体も辛い

ちょっとの外出だって赤子とおむつと着替えを常に持ち歩き
合計何キロを持って移動しているわけ??
お母さんだから当たり前に見られるけど
普通はそんな大荷物もって移動なんてしないでしょ

もう
あの時期をがんばったなら
満点じゃないか。

あんなに他者に尽くす時期ってあるだろうか。

ヨガの修行だよマジで。カルマヨガ。
結果や見返りを求めずただ周りのためにできることをする。

あの時期に比べたら
今なんてラクになったな…

 

 

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