傷ついたとか劣等感とか
そういうことが理由で今現在も苦しんでいるとしたら。
傷つけられた、じゃなくて、傷ついた。
劣等感をもたされた、じゃなくて、劣等感をもった。
誰に何された、じゃなくて、その結果自分はこうすることを選んだ。
それは熟慮の末じゃないから自分が選んだという感覚がないのかもしれないけど
選んだのはやっぱり自分なんです。
そうせざるを得なかった、そうは望んでいなかったけど、も含めて。
相手がしたことに光を当てても
ぶっちゃけ腹が立ったりウンザリしたりするだけでしょう。
確かに相手はそうした、けど、それに対してどうした、というものの主語は自分なはず。
そりゃあ、あんなことしてくれなければよかったのに、だとは思いますよ。
余計なことしやがって、勝手なことしやがって、こっちの気持ちも考えもせずに。
相手が悪くない、わけじゃない。
けど
それを何年も何十年も思っていたって
良いこと何も無いわけです。
じゃあ何ならできるかっていうと
自分は
そのときはそうとしかできなかったけれど
これからどうするかは変えようがあるわけです。
自分がそうすることを選んだけどもうそれは要らない
って思うなら
それは自分で外せます。
その誰かに謝ってもらうことを待っても期待はできない。
その誰かが不幸になればいいのにと思ってもそれは美しくないし
嫌なヤツが不幸になるとは限らない。
世の中は理不尽だ。
でも自分がどう生きるかは自分で変えられる。
恨み続けるか、恨み続けたいか、もうそんなの嫌か。
誰のせいでこうなった、と、一生を諦めるのか。
周りがあどうであろうと自分は
自分の行きたい方向へ少しでも進みたい。
このクソと思えば思うほど
お口が悪いですよ
そんなクソに囚われて生きたくないじゃないですか。
自分の人生から追い出したいなら
いつまでも悪影響のままに置いていることは
追い出すこととは逆。
でもそうして
進もうとするときに
全部他者におんぶに抱っこという
それって矛盾でしょうよ。
まーた、誰かに何とかされようとしてるでしょうよ。
盲目のまま誰かに引っ張られるのではない。
その曇った眼をどうにかするんだよ。
何となく自分を運んでもらって充実させてるように感じさせる
そういう手法ってまあよくあるけど
そりゃあ気持ちよくさせればお金払う人がいるから
変な意味ではない
そういうビジネスもあるけど。
頼るってそういうことじゃないと思う。
面倒だし苦しいし時間もかかるけど
本当に自分の思ってることがわかるって
簡単なようで難しい
それをやったほうがいいと思うんだよね~。
そのためには要らないものが何か
外からいつのまにか付け足されたものは何か
それは本当なのか
みたいなことを考えることが必要で
おままごとみたいなことしてキャッキャ言ってるのは違って。
余計なものを下ろして
感じ考えるというのは
絡まってしまった糸を少しずつ解くような
とても地味なことで
やっぱり身体からやっていくのが一番簡単かなと
わたしの経験上は思うのである。
