言葉で認識すること以上に繊細な世界

雲は白く塗らないでください

というタイトルを見て

じゃあ雲は何色なんだろうか?

と思った。

 

雲は白い

というのがインストールされたら最後

次回からは雲と言えば白である。

だからもう雲をよく見ようとしない。

 

白にもいろいろあるけれど

そもそも白じゃないのかもしれない。

灰色なのか黄色がかっているのか水色なのか。

太陽もそうだ。

国によって太陽の絵を描くときの色が違うというけれど

日本はどうだろう。

太陽と言えば赤やオレンジ。

ねぇ、でも太陽が赤かったことがあるだろうか?

黄色で描く国があるというけど

そう聞いたときはハァ?と思ったが

よく考えれば赤よりはそれの方が実際に近いように思える。

 

雲の話に戻ろう。

雲は何色なんだろう。

雲は白い、と言葉で切り取って記憶してしまうと

もうそれ以上観察しなくなる。

ああ、雲ね、白ね。

でも、白じゃない、と言われると

え、じゃあ何色なの?と白と断定する前以上に観察する。

白じゃないものを見ようとして。

 

言葉の介在は不思議だ。

 

かなしい、ならどうだろう。

腹立つ、ムカつく、なら。

のっぺりとしたその言葉以外にも

もっと繊細で細かい色合いが混じっているのだろう。

実はその言葉はそぐわなかった、かもしれない。

太陽の絵みたいに。

痛い、の観察だったら

どこが痛いの、どう痛いの、ズキズキ、シクシク、ヒリヒリ。

言葉を使いながら探す。これかな、それともあれかな。

ただ感じる、という方法とは矢印の向きが逆だと思う。

どちらが良い、ではない。

 

一方で

自分のモヤモヤした気持ちがピッタリくる感じで言語化されたとき

例えば誰かと話していて~っていうこと?と聞かれたり
本を読んでいてカチッとハマるような言葉に出会ったり
心理学用語でそういう名前がついてるんだ!と思ったりするとき

やけにスッキリする。

言葉によって掬い取れた感じ。

そう、それそれ!ってやつ。

耳の奥でなかなか取れなかったカサカサが取れた感じ。
耳掃除の是非についてはここではどうでもいい

だけれども、

ただただ、何だか言葉にならない切ない感じを味わうのも

感情の温泉に浸かるような、あるいはお香の香りを嗅ぐような、

それも悪くない。

 

言葉で切り取って認識するということは興味深い。

 

言葉で切り取らないのは

感覚だ。

何を感じているのか心を静かにして感じ取る。

ボディワークのレッスンでもそうだ。

床に寝ている感じ。

左手を動かしたときの感じ。

左手を動かそうと思ったときの感じ。
思っただけでも変わる

そこに言葉はない。

無理矢理言葉にすることもできるし

無理矢理言葉にしないと観察する取っ掛かりを見つけられない人もいるけれど

言葉で拾いきれない細やかな世界がある。

言葉未満の世界。

それも好きだ。

 

 

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