「厳しい」
「刺さる」
そう言われることもある、わたし。
わたしにも、あんまり多数派の意見を持っていないという自覚はある。
それでも何か伝わるものがあるのは
わたしの経験から来るわたしの真実だから、だと思う。
「すべては結局自分」
「環境や他者のせいにしても何もならない」
この考えに至るまでに
紆余曲折はあったわけで。
自己啓発書を読んだ。
ヨガのレッスンに通った。
ヨガインストラクターのための講座も受けて何種類かの資格もある。
引き寄せとかシンクロとか言霊とか
占いとかカウンセリングとかNLPとかセッションとか
親にありがとうって伝えてみるとか
嫌なことはしないとか。
どのセミナーに行けば変われそうかネットサーフィンしてみたこともある。
金額を見て「はぁ?」って我に返るけど
これを払えないと変われないのかとまたウジウジ
よくある通り道を通ってきた。
でも結局わたしを大きく変えたのは
「もうこんな自分は嫌だ」と心の底から思ったことだ。
自分で選んだはずの仕事が辛くてクリニックに通いながら働いて
自分で選んだはずの結婚生活が辛くて
希望して授かった子どもなのに育児が辛い。
身体も痛いし心は沈む。
でも大人になるってこういうこと、親になるってこういうこと。
みんなこうして家事して育児して仕事してる。
そこへ大嫌いだった父の病気と死。
若いころから辛そうに働いていたがこれから老後を楽しもうとしていた時期。
人生って何なんだ…。
抑うつ症状、〇か月の休養を要する、と診断書が出たときにはもう起き上がることも難しかった。
いや、正確には、正式に休んでよいと決まった翌日からだ。プツンと糸が切れた。
それまでどうやって授業していたんだろう?
大好きだった読書すらできない。文字を読めない。
休職の書類にサインすら難しい。まともに字が書けない。
当時は保育園児がふたり。
回復はあまりにもゆっくりで、毎日起きていても大丈夫になるまでに数年かかった。
その過程でも、パニック発作には何度も見舞われ
泣いたり沈んだり恨んだり。
もう嫌だ。
変わりたい、という言葉以上に変わりたかった。
病院に行っても、休んでも、少しずつ回復はしていくものの、
元には戻れないし、戻りたくもない。
ずっと抱えている重苦しい巨大な黒いゴム玉みたいな何かは
このままではきっと無くならない。
何かが違って、何か、今と違う方へ進みたい、
でも進めない、どっちに向けばいいかすらわからない。
進む力も湧かない。
何が足りないんだろう。何を手に入れれば、何と出会えれば?
今まで読んできた本の言葉も
誰かにかけてもらった言葉も
病院の薬も
家族がそばに居てくれることも
ヨガのレッスンも瞑想も
それまでに学んだヨガ哲学も
どれも効き目がない。
幼少期のせい?
クソ真面目に進学就職のレールに乗ってきたせい?
学校のせい?
職場のせい?
若いころに虐めてきたわけわかんないクレーマーのせい?
夫のせい?
夫に残業させる職場のせい?
相談しても余計に絶望的にしてくれるカウンセラーや保健師さんのせい?
じゃあ誰が助けてくれるの?
誰も助けてくれないし責任も取ってくれない。
「そんなに辛かったなら言ってくれたら良かったのに」
周りが言ったことはそれだ。
わたしは何度、辛いって言っただろう。
聞いてくれなかったじゃないか。
わたしだけが潰れて
わたしの開けた穴なんてヒョイと埋めて他の人たちの日常は続いていく。
誰も。
誰も助けてくれなかった。
助けてくれようとはしたのかもしれないけど
結果が出なかった。
頼れる人がいないなんて。
ただ、待つしかないなんて。
気力と体力がすぐ切れる壊れたバッテリー状態だから、
ダメなら次探せば、というわけにも簡単にはいかない。
わたしを助けたのは
わたしの身体だった。
初めは
前に通っていた整骨院に行ってみたときだ。
起き上がって動けるようになって、軽い家事くらいはできた頃。
施術を受けると視界が広がって明るくなった。
誰かに頼って回復を実感したのは初めてだった。
ここの先生にやってもらえば、回復が速くなるかもしれない。
そう思えた。
施術直後は明るくても、次の日まで継続はしない。
それでも変わる余地があるという実感が嬉しかった。
身体から変えられる。
今こそヨガなのかもしれない。
外出したら3日くらい寝込む頃だろうか。
でも、、、それまで学んでいたところではないと思った。
そうして次に出会ったのがハマさんとボディワークだ。
そこでは、施術ではなく、自分で動くだけだった。
それなのに、気分の変化が明らかだった。
光が見えた、感じ。
わたし、良くなるかも。
そして
あんなにも外側に足りないものを探して
誰かや何かに頼ろうとして
絶望していたのに
方法も答えも可能性も
全部自分の中にあったということに気づく。
今はまだ見えないけど自分の中に全部あるんだということ。
今までずっと自分なんかダメだって責め続けてきたその自分の中に
そんな自分の中に全部あるなんて。
もちろんそれをガイドしてくれる人と手法があってのことだけど
探し回らなくても、高額なセミナーで学ばなくても、
必要なものはそんなところにはなかったのだ。
わたしが持ってた。
何と言うことだ。
それからボディワークのレッスンを何度も受けていく中で
自分の不器用さ、動きの改善、それに伴う感情の変化や記憶の再生
いまだに成長中であること
成長したいと思うのならば伸びしろはあるということ
過去の影響が大きい中で生きているということを
自分に向き合って感じざるを得なかった。
不器用な生き方も、勉強を頑張ったことも、自分を好きだと思おうとしたことも、
自分は大丈夫と思おうとしたことも、体が滑らかに動かないことも、、、
それも全部、自分を何とか守るために苦肉の策でしてきたことだった、らしい。
何度大泣きしただろう。
レッスン行ったらまた泣くのかなって気が重いときもあった。逃げたかった。
怖かったり悲しかったり。
身体に何が閉じ込められていたのだろう。
涙が出る理由が、わかるときもあれば、わからないときもあった。
そうして自分と向き合ったことが
他者を許すことにも繋がった。
こんなに抱えながらそれでも最善を尽くして生きている。
意識、、無意識の違いはあれど、みんなそうなんだ。
そう思うと、他者のせいにすることも馬鹿らしくなる。
そんなに都合よくできるわけないだろうと。
自分の意思のとおりに目さえ動かせないのに、何を偉そうに笑。
そして、その気さえあれば、少しずつでも改善していける。
内面のことはどんな理屈でも鉄壁の守りで頑な、
そりゃあ何十年と守ってきたんだからもはや要塞だわ
でも、カラダをガイドしてもらうことで変わっていく。
もう大丈夫、戦争は終わったんですよ、ってジャングルに潜む兵隊さんにお伝えするみたいに。
にわかには信じられないってやつ。
そういう経験があるからこそ
わたしは
人のせいにしても意味がない、むしろ苦しみを生む、と思う。
つまりは全部自分のせいで
自分のせいだからこそ
自分で変えていくことができる。
人のせいにしたところで
誰にも助けてもらえないんだから。
人や環境なんかは、そりゃあ影響はあるし
確かに「悪い」場合もあるけれど、
それを責めたところで何にもならない。
それ自体は知らんけど、それの扱い方は自分の範疇。
自分を傷つけた人や出来事が理不尽だとしても
それに傷ついていつまでも後遺症のように引きずるかは自分で選ぶことができる。
例えば自分を殴った人は確実に悪いけど
その人のせいでこれからの人生も、あの人のせいでどうだとか言って生きていきたいのか。
暴言と暴力でどうしたって好きになれない人のために自分の人生の時間を割いて苦しみたいか。
業務を軽減するように診断書が出ても何も変えなかった上司のせいで症状が悪化したと思いながら病んでいたいか。
新卒教員だったときに寄ってたかってあることないこと文句つけた保護者に傷つけられて癒えない?
過去と金の話ばかりする人に合わせたから自分がこうなった?
それはそうかもしれない、だけど。
許さなくても、もう傷つかないことはできる。
そうしてみて、許さなかったこと自体でさらに自分が苦しかったことにも気づいちゃって。
もう、散々人のせいにしても苦しかったから、嫌になっちゃった。
だって何も変えようがないんだもん。
あの人たちは謝ってもくれないし死んだ人もいるし生きててもたぶん普通に暮らしてる。
苦しいのはわたしだけ。
一時的には、薬とか、カウンセリングとか、なんかの依存とかでも仕方ないと思う。
ただそれは、根本的な改善にはならなくて
本気で向き合う準備ができたときには
自分を変えていくしかないと思う。
出来事と感情を切り離して整理すること。
思い込みがあることに気が付いて手放そうとすること。
過去と現在はもう違うということ。
今はもう安全で安心していいということ。
身体を通して感じ学んでいくことができる。
誰もがそんなふうなボディワークの使い方をするわけではないだろうけど
それは可能だってこと。
でもそうするって決めることは簡単なことではなくて
だから
極限まで苦しんでもう嫌だ!ってならないと
なかなかわからないんだと思う。
無意識的に、あの人を責めたい、みたいになっちゃうときもあるだろうし。
そうしないと心がもたない気がするんだよね。
だから多くの人はそれで済むんだと思う。
それで耐えられるんだから。
わざわざ過去のトラウマと向き合ったり泣いたり孤独感が蘇ったりなんて
そんなことをしたくないのが普通(普通って?)だ。
でもそうしてまでも変わりたい何かがあるのなら
道はあるしガイドしてくれる人もいる。
人のせいや環境のせいや過去のせいにできているうちは
そうして耐えられているのだから
大したことないか、その人の忍耐力が鬼レベルなんだよきっと。
だからね、文句ばっか言って人のせいにする人とか
わたしに「厳しい」って言う人を見ると
それはそれで幸せなんだろうなぁって思うよ。
この人まだ大丈夫なんだなぁって。
怒ったり悲しんだり恨んだりする元気あるんだもん。
わたし、あのときあれくらい苦しまなかったら
今日も夫や親や職場を責めてたと思う。
その自信は結構ある。
それで幸せになんてなれると思う?わたしはなれないと思ったの。
だから、よかったんだ、これで。
わたしが欲しかったものは、わたしが持っていて発掘されるのを待ってるだけ。
夫にも、母にも、なんか変わった、と言われる。
最近は
欲しいとも思いつかなかったものも、きっと出てくるんだろうなって思って
なんだかこの先がたのしみ。
わたしも、結構大変な登山をしたので、小さめの山であればガイドできます。
ヒマラヤとかは無理です。