冬は何とか多く日の光を浴びたいと思う。
だから、居間の南向きの窓から見える太陽が気になる。
もうすぐ2月とはいえまだ太陽の高さは低いから
ちょうど真昼、一番高度のある時間でも太陽は裏の家の屋根に隠れてしまう。
その前や、それから昼過ぎになると家と家の隙間から光が差す。
今日は昼過ぎのその時間に
フワフワと雪が舞った。
不規則に舞う雪と
それを照らす光
小さな綿菓子のような雪はパステルイエローだったりオレンジがかって見えたりする。
わぁ…。
こうしてぼんやりと雪を見ていた子ども時代を思い出した。
舞う雪の一片を決めたらそれをずっと目で追ったものだ。
見失ったら次の一片。
どうして子どものときは雪が好きだったのだろう。
今はこんなに雪が嫌いで、冬が嫌いなのに。
そしてどうして今日は
雪が美しいと思ったのだろう。
昨日は、今シーズン一番の大雪で
しかも気温が高めなものだから
雪かきをするにはとても重い雪だった。
きれいにしてもまた積もるので4回雪かきをしたら
合計すると3時間くらい雪を集めては運んでいた。
3時間の肉体労働である。
冬だろうが汗だく。
突然だが、わたしはもうすぐ45歳である。
45歳女性が、3時間の雪かきをして、
多少の筋肉痛はあるが腰痛がないというのは素晴らしいことではないか。
や、まだ44歳だけど。
本当に昨日の雪は重かった。
積もった雪にスコップを差し込んだ瞬間「え?」って思った。
ママさんダンプで運ぶのだって
力任せに進んで行こうとしたら上り坂かってくらいの負荷。
ていうかなんで「ママさん」ダンプなん?
子育てで抱っこが多い時期には
今はもう上は高校生で、末っ子も小学生です
腰が痛くて痛くて整体に通い
抱っこや雪かきには腰ベルトが必須だった。
大雪の日で夫が出勤で居ない時間帯は自分しか雪かき要員が居ない。
雪遊びしてくれたらいいが、そうでないときは、おんぶして雪かきしたのだろうか?
それとも昼寝の時間を狙ってしたのだろうか?
記憶にないほど、あれは絶望的だった。
身体がしんどい。
そんなわたしが、
あんなに酷い雪の翌日にピンピンしていて
雪って美しい
なんて思っている。
ある意味若返っている。
これって
わたしが今
身体が辛くないからなんじゃないか。
もし今日も大雪だとしても
まあ何とか雪かきができると思う。
起こることに対応できる自分だから
辛い点にばかり集中して見なくても済む。
降ったら、めんどくさいけど、でも、眺めてみればきれいだね。
という余裕がある。
辛い、にフォーカスしなくていいから、他の周りも見えてくる。
子どものころは、そんなに身体が辛いなんてことなかったし。
それに、あれもこれもしなきゃ、しんどいな、なんて
そんなことも思ってなかった。
辛くてしょうがないとか
何かがすごく嫌いだとか
そういうときって
環境や他者がどうというよりも
自分の身体に余裕がなくて
そして心に余裕がない
そういうことなのかもしれない。
それと、やらねばならないことに追われていて
心に余裕がない、というのも。
でも、そのやらねばならない、だって、
スイスイできれば苦労しないし
適切な判断で取捨選択したって良いわけだ。
やっぱりさ、すべては自分なんじゃないかな。
だって冬ってたくさん雪が降って寒いし暗いし不便で
毎年気が滅入っていたけれど
わたしの身体が前よりうまく使えるようになっただけで
冬の美しさまで感じてしまっている。
自身の対応力によって見える世界って変わるのか?
じゃあただ文句垂れてるってすごい恥ずかしいのかもしれない
たまに愚痴をこぼしたり相談したりはいいけれど
いつも環境や人のせいにしてるって、、、
環境は何も変わっていない。
変わったのは、わたしだもの。
それなのに、こんなにも気分が違う。
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