すべては層状、仮説 その①

そんな話、絶対怪しいだろ

という話を

親しい人から嬉々としてされたら

どうします?

例えば、

宇宙人がどうとか

過去生は〇〇人だとか

ハイヤーセルフがどうとか。

 

わたしは別に

否定も肯定もする氣はないです。

つまりわたしの中でその話が真実であるとはならないし

嘘だろオイ、ともならないです。

でも、この人の世界ではそうなんだなぁ、と思う。

 

すべては層状なんだなぁって

最近、思うことが多くて。

全然違うレイヤーの重なりなんだなって。

 

宇宙とはこんな仕組みで次元の低い何とかと次元の高い何とかが争っていて

これから次元上昇のために何とかかんとか、

2025年7月には大変なことが…

みたいな話は、

まあ聞いたことはあります。

わたし小学生の頃はノストラダムスの大予言を怖れていました
でも何も起こらなかったやーん
しかも全然違う年にえらい災害が起こったりして
何なんもう。

 

そう信じている人にとってはそれが真実なんですよね。

でも、わたしにとっては真実っていうわけにはいかなくて

だから

その時点で二つの世界が誕生しているわけ。

宇宙人やハイヤーセルフがどうとかっていう世界と

そこまで宇宙人かんけいなくね?な世界と。

でも

どっちが正しいかってことは

今のところ証明できないわけでしょう。

 

宇宙人やハイヤーセルフなんかは居るかもしれないって思う派ですよ、わたしも。

でも、どこまで信じるかっていうのも人それぞれでしょう。

ハイヤーセルフがこう言ってます!だからこうしましょう!

って他者から言われて言うとおりに行動するか。

わたしはそこまでないなぁ。

ハイヤーセルフとは、この世のしくみとは、などを語る人は

もう真剣も真剣の大真面目か

人を騙そうという大ウソつきか
お金を取りたいのか構ってちゃんか

精神病で幻聴幻覚に襲われているのどれかだと思う。
言い方よ

大真面目だとしても

その話を全部信じられるかというと

信じられないんですよね。

ひとつのストーリーとして聞くだけ。

でも、嘘やん、とも思わない。

もしそうだとしたら、って想像して

その人の世界観に入ってみるのは面白いのでやってみる。

だって、嘘じゃないならあり得るからね!

 

しかし

どうやってそれが真実だと証明できるのよ?

それが真実だとも、嘘だとも証明できない。

 

そういう世界であると仮定するならば、わたしはこうしよう。

という選択はできるよね。

そしてそこは自由。

 

でもさー、これって、宗教だって同じような構図なのかも。

世界にはたくさんの宗教があって

一つを正しいとすると他は間違いになる。

でもそもそもその教えや歴史が絶対の真実だって証明できるわけでもない。

お金目当ての新興宗教ならいい加減さを証明できるかもしれないけど。
でもそれにのめり込んでいる人にとっては、そんなことどうでもいいんだろうし。

同じ〇〇教という名前でも

宗派によって全然違うことを言っていることさえある。

信じている人にとっては、それが真実。

だから

同じ世界で同じ時の中に生きていても

互いに否定するものが存在しうる。

〇〇教にとっては☆☆教はありえない。

☆☆教にとっても〇〇教はありえない。

でも、どっちにも信者はいて

どっちも存在している。

①神は一人しかいません

②多神教です

③神なんて居らんわ

④俺様が神です

でも一応みんな真剣でしょ。

わたしもどれが正解かわからない。

俺様だって、自分自身が神なんですよって教えもあるわけだし…

すべては層状なんだ

っていうのは

ここで言えば

この①~④の違い(その他もある)なの。

どの世界も重なって存在している。

上とか下とか優劣も善悪もなく、ね。

一神教の人から見れば、この世界は全部、神はひとり。多神教の世界はない。

多神教の人から見れば、この世界は全部、神様が何人もいる。一神教の正解はない。

そんなかんじで起こる現象はひとつにしても

同時に、同所に、相反するものが存在している。

そんなことさえ可能なのです。

ここが後々ポイントになります

 

ヨガも、そうだと思うの。

いろんなヨガがあってさ

まあそれはちょっとヨガと関係ないんでないかい?ってのもあるけど

「これが本物のヨガです」

って言ってすごいポーズを繰り出したり

肉体を壊すほどの修行をしたり

ひたすら瞑想したり

教えを説く人もいる。

ヨガにどっぷりハマって離婚する人もいるし

ヨガ哲学の話をしますとかレッスンやSNSで言って

実際の生活場面ではアヒンサの欠片もない人もいる。
非暴力ね。それはそれで、みんな道の途中だから良いけれど

チベタンボウル鳴らしてマントラ唱えて

シャバアーサナしてティンシャをチーンと鳴らして目を開けるのこそが

ヨガレッスンらしい雰囲気であるのもわからなくもない。

もう、どれが本物なんだい。

でもどれも、真剣な人にとっては、それが真実なの。

自分もそうだから、わかる。

この先生の言うことだから真実だ、

この先生についていけば間違いない。

これで一生道に迷わないぞ!なんていうのは

時が経てはそうじゃなくなることもある。

先生が間違っていたわけではなく

自分の腑に落ち方とズレが生まれることもあるのだ。

わたしはそれが一時期ショックでね。
誰かについていく安心がなくなって。
これじゃあ、新しく先生を見つけたとしても、きっと同じだ。
自分が本当だと信じる世界の、脆さ。

ヨガの書物を紐解いて

教えを学んでいくことが本物なのかもしれない。

でもそれでさえ

読む人や教える人のフィルターの影響がゼロなんてことはない。

読み取り方、腑に落とし方、使い方。

仮にその書物に忠実に学ぶことができたとしても

そもそもその本に記されたヨガの歴史や世界観が真実なのかなんて…

もしかしたら現代でハイヤーセルフを語っているような人と

同じような人が大昔にいただけで

どういうわけか後世まで残っただけかもしれないじゃない?

国際信州学院大学を作っちゃった2チャンの人みたいなのがいただけかもしれないじゃない?
架空の学校なのにまるで存在するかのように創り込んでしまう人もいるのよ

でも結局ヨガの教えだってそうして人が形にしたから存在しているんだよ


ヨガがそんなふざけた結果なんて可能性は低いだろうけどゼロと言える?
可能性、の話ね笑

戦争に負けると負けた側の国史は正しく伝えられなくなる
みたいに最近の歴史だって本当のところどうかなんてわからないのに

大昔から伝えてこられたものがどれだけ純粋なのか?
これなら信じられる、ってものがわたしには、、、
これは確か、っていうのはあんまりないかも

 

ただわたしは

その教えがある程度体系立てられていて

なるほどなって思うところが多いから

少しずつ学んでいるわけでね。

ヨガじゃなくてもいいのかもしれない。

心から尊敬できる人がいるのならその方の人生論を聞く方が

よっぽどストンと落ちるのかもしれない。

生きるヒントになるなぁと思うことなら、なんでも楽しいから。

結局、自分の中の何かと結びつくものを探しているのか。

グルの言うことは何でも聞けっていうのもわたしには無理なんだよなぁ
どうせ未熟なんだから四の五の言わずに聞くといいっていうのもわかるけど
なんかそこまで、、、そうだ、グルに出会ってないからそう思うのか

 

医学だって

わたしは感染症騒動以来

確かなものではないのだなと思うようになった。

医学を何だと思っているかにもよるけど。

本当に良くなるためのものなのか

それでお金を儲けるためや立場を守るものなのか。

どういうものだと思っているかによって

発言や思考だって変わる。

ある薬や予防法が効くと信じている人もいるし

そんなんむしろ逆効果だと信じている人もいる。

それはその人の経験、思考能力、クセ、などが関係していると思う。

あと、周りの人の考えなんかにも影響される。

どのメディアにより信頼を置いているかにもよるし

権力や肩書を重視するか

自分で論文などを調べるか
論文だって世に出るものと出ないものがあるんじゃないか

そういうのもある。

 

どの宗教を信じるかで人生は変わる。

どの話を信じるかでも変わる。

ある人の一言で人生大激変ってことさえある。

下手したら命を落とす。

信じる、なんていう感覚もない。

そうなんだ、って思うような感じ。

あ、それ採用、って無意識に。

信じるそれが本当かどうかなんて、わからない。

本当かどうかは、どうでもいい。

どうであれ

どの設定を選ぶか、っていうことなんじゃないかと思うのだ。

その設定で幸せなら

それで本当かどうかなんてどっちでもいいんじゃないか。

ボディワークは
その効果が本当かどうか嫌でも身体でわかるのが好き
だけどその効果が精神、ひいては人生にまで与える影響は
感じられる人と感じられない人がいるとは思う
(ていうか、身体の感覚でもわからない人がいるのも事実)

 

それなら

誰が何を信じていようが

本人がそれで良いのなら

何だっていい。

自分と違うからって

それは間違っているとか

もっと良いものがあるのにとか

言う必要も

思う必要さえもない。

自分にとっては間違いで

自分にとってはもっと良いものがあって

でも

それが他者にとってもそうだなんて

わたしはなんて傲慢なことを思っていたのだろうと思う。

 

自分はどんな設定だと楽しく幸せなのか。

もし誰かに何かを伝えるとしたら

これが正しい

じゃなくて

わたしはこんなのが好きです

っていう紹介みたいな感覚にしたい。

世界観のひとつでしかない。

 

これが正しい

普通はこうなのに

これが当たり前

と思ったら

結局自分が苦しむことになる。

だからこそ
わたしのこの考えもひとつの世界観でしかなく
それが正しいのかどうかという議論は必要ない

そしてそこが

コミュニケーションの大切な前提だ。

その話は、また続きで。

メモ。軋轢、って久しぶりに書いた。いつもメモは書かずにブログを書きます。
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