できないときがあってもいい

わたし

わりと厳しいことを言うらしいんですよ。

代表的なのが

全部自分のせいだよってことなんですけどね。

厳しいように感じるだろうけど
めっちゃ癒しになるんですよ

革命的

 

でもね

わたしにだって

そうやって向き合えないときはある。

 

強くなれないときはある。

もうすべて投げ捨てて美味しいもの食べて布団被って寝たい。

全部周りのせい人のせいにして
グダグダ文句垂れたいし責めたいし悪態ついてやりたい。

なんかもうどうしようもなくてズーンって落ち込みの沼へようこそ。

右手に見えますのはもはやカオスの食卓です。
左手に見えますのはプリントや洗濯物やおもちゃが散らばった床です。
前方に見えますのは晩御飯の支度しなきゃという気持ちです。
足元を調べると疲労感がまとわりついています。

今日一日何をしていたのでしょう。
そんなときに限って勃発する問題とか。
もうお腹いっぱいだってば。

そんなときもあるのよ。

今なんて、暑くて湿度高いってだけでも疲れてるし。
そこに、耐えるエネルギー持っていかれてる。

 

それで、いいと思うんだよね。

だって、元氣ないんだもん。

 

自分のせい理論はね、

他者は悪くない、とは言ってないの。

例えば

暴力ふるったり暴言吐いたりする相手は

やっぱり良くないよ。

やっちゃいけないことをしてるのは相手だ。

でもね

こっちがそれを正したり成敗したりできないとき

ただ攻撃を受け続けなきゃいけないのかってこと。

どうやって避けるか

どうやって癒すか

どうやって状況を把握するか

もうこれ以上ダメージを受けなくてもいいように

相手が変わるのを待たず自分でするってこと。

相手への期待を捨てる、っていう、
変わってくれることも理解し合えることも諦めるっていう
ある意味、相手に対して最高に冷たい方法。

 

でも

やっぱり腹が立ったり悲しかったりするよ。

心の中が

泥水を掻き混ぜたようにブワーっとなる。

 

それに対してすぐさま

自分を立て直してスマートに対処することが

できないときもあるよ。

簡単なことじゃないから。

 

できない日があって

嵐が過ぎるのをじっと待つ日があってもいい。

元氣になったときに

また動いたらいい。

ひとりで元氣になれないなら

誰かに頼ればいい。

 

心がもうダメだと思うなら

体から整えていけばいい。

見えない心はどうしたらいいかわからなくても

見えて触れることのできる体は

心よりはわかりやすくて、やりようがある。

体が少し元氣になれば

心のこともちょっとがんばれる。

そうしたら、また少しずつ良くなるさ。

いつもいつもてっぺんの絶好調、なんてないからね。

人には波があるんだから。

エネルギー溢れる日があるかもしれないし

ソワソワしてもいい

落ち込んでもいい

真ん中にも戻れるなら。

誰かにとって、じゃなくて、自分のね。

朝昼晩があるように。

季節があるように。

変化はあるもの。

その変化に翻弄されなければ

変化自体そのものは、悪いものじゃないかも。

 

変化しないことじゃなくて

変化に翻弄されないこと

流れを感じながらそこにいること。

 

 

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