似たもの同士では得られない新しい糸口

自分と他者が違うということ。

あなたはどう感じますか?

たとえば、このご時世のわかりやすい、かつウンザリするような例で言えば

今でも常にマスクが必要か必要でないか、とか。

薬が必要であるかどうか、とか。

あ、まって、この話をしたいわけじゃないからもうちょっと読んでー

 

・個人の好きにしたらいいんじゃない?

・けしからん、腹が立つ

・本当はこうしたらいいのにって思うけど言わずにおく

・どうしてそうするのか興味が湧く

・問われるまで何とも思ってなかった

・その他

 

人それぞれだと思うんです。

わたしはどうだとは、書きません。

これは例であって、今この話題にしたかったわけじゃないんです。

 

何の話をしたいのかというと

『自分と他者の考え方や行動が違った場合、どう感じるか』

です。

 

他に日常のあるあるで言うなら

たとえば

ある人が言ったことに対して腹が立つ人と何とも思わない人がいる

なんてどうでしょう。

わたし、これ、よくあります。

よくある、と氣付くのは

自分の思いを口にするからです。

自分が怒っているときもあるし、

逆に、なんで怒るのかわからない、の立場になるときもあります。

「こんなこと言われて腹が立った」

これは悪口なんじゃないだろうか?と思うでしょ。

でもね、相手はこう返してくるんです

「へー、そうなんだ、わたしはそんなふうに思わないよ」

は?へ?なに??

聞いてみれば、なるほどそういう捉え方もあるわけか。

自分の感じたことが、いかに狭かったか思い知るのです。

自分の感じたこともそれはそれであったことだから間違っていないけれど

それひとつだけでもないし正解はない。

この相手の方たち、

ことごとくわたしとは違う捉え方と反応と対応をするのです。

それが面白くて。

人って全然違うんだなぁって思う。

ああ、そっちの切り口、全然思っても見なかったけど、それもあるよね!

一本道しか見えていなかったのに、急に分かれ道が見える。

前しか見てなかったけど、横向いたらこっちにも行けるじゃん!
横見なかったら絶対わかんないじゃんってゲームで氣がつく感じ

 

自分と似た捉え方や考え方をする人たちもいるんです。

そういう人と話すと

わかるわかる、って言ってくれるし

腹が立つときは一緒に怒ってくれるし

それはそれで良いし必要だけど

それだけでは

そのとき癒されはしても進化はない。

自分たちだけが正しいと思い込んでしまう危険性もある
そして他者を否定しわかってないとか愚かだとか間違っているなどと評価してしまう
それはその視点から、その立場からだけの話であるので、それはそれでよいのだけど、
それが世界中の真理というわけでもない…
と書いているこのわたしも同じことという矛盾
こういうことに必要なのは謙虚さなのかなとは思う
意見はあるけど絶対じゃない、常に自分は間違っているという可能性も小脇に抱えておくような。

でも自信がないとはまた違う。むむう。
流動的なんですよ、より良いをずっと探し求め続ける。

 

自分と全然違う人の話を聞けることは

必須だと思う。

こんなに自分とは違うのに

相手は相手でちゃんと成り立っている。

わたしならそんなふうには思えないという捉え方をする。

わたしなら絶対にやらない、できないこともする。

でも楽しそうに生きている。

どんな世界なんだ??

 

でもね。

違うっていうことに

拒絶反応でること、あるかもしれない。

離婚理由の『性格の不一致』って何なんだろう
うちなんて全然一致してないけど
一致したくもない、ああなりたいとは思ってない、たぶんお互いに

 

腹が立って愚痴ってるのにさ、相手から

「へー、そうなんだ、わたしはそうは思わないよ」

なんて言われたら

「うわぁぁぁ、否定された、わかってくれない、酷いぃぃぃぃぃ!」

って、

なるケースも、想像つかない?

こうなったら、

せっかく違う視点に出会えても取り入れる隙もないし

相手のことも嫌になってしまうし

向こうだって嫌な思いするから二度と意見言ってくれないだろうし

まあ、おしまいよね。

  

わたし、過去、そういうタイプだったと思う。

じゃあ、今のわたしがなんでそうならないかって。

相手の話を聞いたら、なるほどなぁって思っちゃうんだよなぁ。

どうして?ってところを聞くと、

なるほど、それはそれでなるほど。

と思える。

だから、なんか嫌だなって思ったらあえて話しかけたり会ったりもするようにしてる
そうすると大抵、なんだいい人じゃんってなる

大切にしたい人ほど、そうしてる
誰にでもそうしろって話かもだけど

背景を知るってこと、知ろうとすること
勝手に思い込んで嫌がっているということ

あとね、

相手にも、自分にも、

同じようにしろっていう圧力は全然ない。

違っていい、っていう前提がある。

 

なんで違っていいかって、、、

正しいなんてものはないからかなぁ。

どれが正しいなんて、本当にはわからない。

それに、個人の判断って、その人の経験やらの背景があってこそで

そこは一緒じゃないことはわかっているから違って当然で。

倫理的なことに絡んでくると何しても良いっていうのは違うと思うよ
でもそれさえも勝手に善悪つけてるのかもって思うこともある
感情的に許せないにしても

 

その人にとってのその言葉の意味の微妙な違いもあるし

 

許せることと許せないこと、嬉しいこととそうでないこと、

それだって人によって違うし、似ていても程度が違うということもある。

例。浮気は許せない?手を繋ぐくらいなら許せる?二人でご飯食べに行くくらいなら?
好意持っただけでアウト?バレなきゃ何でも良し?自分は良くても相手はダメ?

 

わたしはね、

わたしと違う意見なのに

スルッと言ってくれるって嬉しいなって思う。

だってそれは

言ってもいいって思ってくれているからでしょう。

それってね、

自分とほぼ同じ意見の群れの中でいるよりも

一段上の安心感だと思うの。

違っても共に過ごせるって。

あなたはあなたでいいし、わたしもわたしでいい。

そうなんだ、そういう考え方もあるんだ、だからそういう言動をするんだ、

そっかぁ、いいねぇ、って、心から思える。

そしてやっぱり、ちょっとかかなりか知らんけど影響は受ける。

だけどね、わたしが勝手に安心して相手と違う意見をぶつけちゃって
相手が「否定された!」ってなる大失敗を何回かやらかしたことがあります
読んでないと思うけどごめんね

 

…それは相手に対する尊敬
リスペクトという方がしっくりくる氣もするのだがどうして英語なんだろうか

たとえば痛みを抱えてレッスンにやってきた方だって
レッスンも英語だな

痛みを作ろうとしてきたわけじゃなくて

その方なりにできることを、最善だと思ってやってきたわけで

それを

そんなことするから痛くなるし薬飲んで手術するから余計に、

と言うことは違うと思うんですよね。

そうなんだろうけどさ。

それはそれで、そうするしかなかった。

それがいいと思った。

それがもし違ったのだとしたら、これから変えていけばいい。

わたしも、正しいとは言い切れず、他の方法を提案しているだけ。
わたしなりには最善だと思ってるけど

これもやってみて、よくなったらいいですよねぇ、と。
結果が出ることが何よりだもの。

 

それと同じことなんですよね、

その他の日常のいろいろも。

知らなかっただけ、のことだってたくさんある。

だから知るために勉強するのかなって思う。
だが与えられているものだけでは足りない。

 

そんなふうに改めて思えたのも

そうでないと感じられる経験をしたから。

自分の中にあるものが外側に見える。

すべてはグラデーション、すべては陰陽。

わたしはついついジャッジしてしまうクセが抜けない。

だからジャッジされると感じることに対してものすごく拒絶反応を起こすのだろう。

 

いろいろなものが混じり合うなかで

自分はどうありたいと思っているのかを見せられる。

どこに向かって行きたいのか。

何を選び取っていきたいのか。

自分だけでは絶対に見えない世界がある。

自分に似たもの同士だけでも見えない世界。

世界は何て豊かなんだろうか。

ときどき、よそ見さえできれば、

ほら、視野が狭いよ、っていつでも言われるような。

 

ねえ、前田森林公園のここへ行くたびに、

ICOみたいだなぁって思う。

宮部みゆきの本。ゲームもちょっとやったけどすぐ飽きた。本、面白かった。

よそ見をしたくて、先日興味のない分野の本を本屋さんで手に取ったけど、

やっぱり無理だった。

数学の楽しさを説いている本。証明の美しさについて。

著者は楽しいと思って書いているんだろうけど、わたしは2ページで限界だった(つまり開いて閉じただけ)。

でも、誰かが数学を心から楽しいと思うことを、否定する理由なんてないよね。

テキストのコピーはできません。