「主体と客体について話して!」
娘の園のお泊まり会のお迎えをし、遅刻して入った講座で、
毎月ボディワークの学びを重ねています
まるで学生時代の駆けつけ一杯のように話を振られた。
飲んでのーんで飲んで、ハイハイハイハイ!って今の時代はしないだろう。
「はい?」
まだ靴も脱いでいない。
えっと、、、冗談かな。
「勝ち組と負け組についてでもいい」
本気で聞いてる(*´Д`)
早々にみんなの前に座らされ座り、
んー、
と、口をついて出たのが
「わたしは勝ち組だと思うんです」
あっらー!(*’▽’)何言ってんのワタシ!
わたしは勝ち組だと思っている。
なぜなら、わたしは自分の価値観や意思を大切に生きるようになったから。
社会的には、むしろ負け組かもしれない。
ろくに収入もなくタフに動けるわけでもない。
世間的勝ち組って、学歴があって収入があって、ってことだろう。
だけどわたしにとっての負け組って何かと言うと、
したくもないことをして、心や体に負担をかけて、他人のためばかりになっている人。
他人がどう言うかを気にしている人。
で、
何てこと言ってるんだわたし、と思ったのだけど、
それが主体と客体のはなしに繋がるわけですね。。。
だってね、
他人の都合で生きて、他人に何言われるか気にしていたら、
死の間際に後悔すること必至だよ。
誰の人生を生きたんだろうって。
主体的に生きるということは、わたしにとっては重要ポイント。
そしてその主体って、それぞれの主体だから
みんなが同じ、ではない。
いいんですよ、学歴と収入と地位と何とかと、、、で満足する人はそれでいい。
そういう人がわたしみたいな生き方をしたら、気持ちが沈んでしょうがないと思う。
問題は自分のそれをみんなも同じと思い込んで押し付けるケースが多すぎるということ、しかも自覚なく。。。
誰かのために生きたい、それが自分の心からの願いなら、それでいい。
したくないけど結果的に人のために頑張ってる、とは質が違う。
良い悪いじゃない。
だからね、
自分は何を大切に生きていくか
自分の中の優先順位ってどうなっているのか
それを意識しながら生活することが、大切なんじゃないかな。
欲しいものは何?
ありたい姿はどう?
わたしはよく思う。
ある日、体が動かなくなっても後悔しないか。
もし長生きできたとして、もっとこう生きたかったって後悔しないか。
理想、完璧、になんて届かないと思う。
でもその方向を見ながら、そのときそのとき、最善のバランスであること、
それを重ねていくことが日々であり、その連なりで人生ができる。
![](https://rakutano-labo.com/wp-content/uploads/2022/07/wp-1656901810099-1024x768.jpg)
あのね、
勝ち組になるのって、簡単なようで簡単ではない。
振り切らなければならないものがたくさんあるから。
まず、お金第一の世の中で、お金第一ではない、を選ぶのは、ひとつ勇気が要ります。退職するとかね。
そのとき、
真ん中に自分を置いて、
周りのものを削ぎ落していく。
削ぎ落し方は、
まずは「自分はどうしたい?」って内面を見ること。
それから、それとは合わないのに貼りついている何かを、
諦める、主張する、対立する、押し切る、耐える、検証する、相談する、話し合う、
いろいろある。
今書いたこの方法、なんでわたしがこういう順番で書いたと思う?ボディワークと同じでさ、最初に出してくるものって、馴染みのあるような気がするよ(泣)
薄皮一枚一枚、剥がしていく。思い込みや記憶や誰かの念みたいなものを。
自分が気づいたところで、
相手のあることだと、相手が快く理解してくれるとは限らない。
傷つけたくもないし喧嘩もしたくないさ。
ここが苦しいところ。
一緒に歩めなくなることもある。
それはお互いの主体性を大切にするからこそだと思う。
相手はそう思わないかもしれないけど。
すぐには終わらないことも多い。
自分の中に住んでる誰かの声もうるさい。
でも、それにどうぞどうぞって言って犠牲になるのが自分のココロだったら?
誰がそれを守れる?
一見大丈夫、かもしれない。
でも、それならなぜ、疲れが取れなかったり、痛みが出たり、するんだろう。
からだは教えてくれている。
本当はそうしたくないでしょって。
最初は小さな痛みかもしれない。
気づかないと、だんだん、
ねぇ、本当はそうしたくないでしょって、
もうちょっと辛い次の不調を出してくる。
わたしがどうしてそういうのわかったかっていうと、
それはウツになったからだよ。
今思えば、ちゃんと、段階を踏んで不調を強めてくれてた。
そこまでしなくたって気づけばいいんだよ。
そしてね、人のために、迷惑かけないように、って頑張ったって、それで潰れても自己責任なんだって痛いくらいわかったの。
「そんなに辛かったなら言ってくれたらよかったのに」って言って、周りは普通の日常を営むんです。
そんなもんなんだよ。そこまで自分がやらなくてもいいのよ。
もう限界だから許して、ってウツにならなくてもいいの。
痛みや不調って、なんて優しいんでしょう。
徹底的に、自分を守ろうとしてくれている。
あなたの行くのはそっちじゃないって教えてくれる。ブレない。
うちの娘は、お泊まり会が楽しみで楽しみで、
何日も前から待っていて、
当日の朝は目を開けるなり
「ママ!とうとうこの日がやってきたよ!」
と目をキラキラさせて言った。
スイカ割りや花火大会、カレー作り、アイスの買い物、謎解きミッション、、、
「大人になって、こんなに楽しみに待つものってあるだろうか?」と言ったのは夫だった。
お泊まり会の終わった今は、園庭に出してくれる大きなプールを楽しみにしている。
大人になったら、
待っていたってお泊まり会も水遊びもないけれど。
でも大人になったら、
自分で、好きなことできるはずだよね?
好きなところへも行ける、
好きなものも買える、お金が必要なら稼ぐこともできる。
乗り物から道具からいろいろなものを利用できるし、
好きなことができる。
そうする力はあるんだよ。
そうでしょ?
好きなことばっかりしてたら生活立ち行かない、
じゃなくて、生活立ち行かせることだってしたいことのひとつで。
なのになんでこんなに大人って不自由なの?
邪魔してるものは何?
じゃあ、何がしたい?
そのために、何ができる?
なぜ主体と客体のはなしを振られたのかはいまだによくわからない。
でも自分が勝ち組だなんて発見だったわ。