裏側を見る


自分の感情や考え方、言動、生き方の裏側が見えるようになってきたら、

自分以外の人のことも裏側を見る習慣ができた。

本当に見えているのかはわからないけれど、

感じるものはある、

そんな感じ。

ここ数か月のことだ。

 

良いも悪いもなく。

好き嫌いもなく。

ただ、そうであること。

そしてそういう見方考え方があるというのは知っていて、
それを使おうと意識するのではなく、
自分がもうそうなってしまったというのが今。
ずっとヨガ哲学とかで知識として知っていて、

それが知識じゃなくて自分に落とし込まれた。
経験を通して。

ダウンロードだけじゃなくて、インストールされた。
だから最近違和感がある。
それまでとは違うから。選ぶ行動も変わってきた。
だから周りの態度も変わってきた。
そりゃそうか。

 

苦手だなぁって思っていた人のことも。

好きだなあって思っていた人のことも。

陰陽があって。

陰の方が見えるようになると、

なんだか、

元は同じ。

苦手も好きも、ただのわたしの都合で、しかも陽だけ見ていて。

みんなただ懸命にここまで生きてきたというだけなのに、

陽の部分しか見ないで自分フィルターでジャッジまでするとか、
逆に、されるとかも、

何だったんだろう。

良いとか悪いとか好きとか嫌いとか、
認めるとか認めないとか認めてほしいとか、

そんなことを言うなんてなんて傲慢なんだろう。
そんな小さなこと氣にしなくてよかったんだ。
誰かの機嫌のためにとか褒められたいとかいう理由で、自分の行動を変えたり、考え方を調整したり。

 

フウッと奥を見ると、

たいてい、

その人が子どもになった姿が見える。

そして、いろんな主張をしている。

わたしこんなにがんばったのに。

ぼくはもっと愛されたかっただけなんだ。

純粋で単純な、きもち。

 

大人になったから、

器用にいろいろとできるようになったふりをして。

ふりをするから、

こじらせる。

 

わたしはそういう人たちを見て、

そうだよね、

って自分に氣づく。

自分の中の、子どものままの自分の主張と、

大人だからって上手にできるわけじゃないっていうこと。

むしろ大人だからこそ、
未熟であることが認められなくて厄介。
そして他人を見るように客観的に見ようとするほど、
恐ろしいほどに自分のことは見えない。
だから自分以外の人を通して学ぶのかもしれない

しかし客観的は無理だけどまぎれもない自分を感じることができる方法があって。
自分のことを内側から感じることができるのがわたしが学んでるボディワークだと思う。
それは他の誰にも任せられない、自分にしかできない。
誰かからのジャッジも関係ない世界で。

 

だから学び続けるし、

だから、一人でやろうとしない。

これができない、って言っちゃえば、

代わってくれたり共感してくれたりヒントをくれたりする。

 

何でもできる大人になんてならなくてよかったんだ。

誰かより優れなくてもいいし、誰かより偉くならなくてもいい。

そんなに学生時代の試験みたいに抜きん出ようとしなくても、

もうどうしようもなくその人にしかないものってあるんだ。

だから、それを使って助け合える方がいい。

わたしはね。

 

はぁー、

そしてまた、考えるのよね。

わたしにしかないもの?

でもそれって、考えて出てくるんじゃなくて、

もうすでにやってるのよ。

お金になるかならないかで考える洗脳を取っ払えば見えるのかもね

 

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