正しい、と、正しくない


極端な話をすると

 

戦時中

この戦争は正しいってことになってたとして

個人でも本気でそう思ってたとして

 

戦後

戦争は間違いでしたもう二度としてはいけませんって言われたとして

さあ個人はどうなるでしょうね。

この個人にも

プロパガンダを作り出した側の個人と、

受け取る側だった方の個人がいます。

 

 

その正しさはどこから来たのでしょう。

 

個人が何かを正しいと思うとき

その根拠はどこにあるのでしょう。

 

もう少し考えてみよう。

 

戦争じゃなくて

 

感染症だったら?

 

政治だったら?

 

教育だったら?

 

お金だったら?

 

栄養学だったら?

 

あなたの生き方だったら?

 

 

 

システムは人間が作ったもの。

そのシステムに苦しむのなら

なぜそれを抱えて行かねばならないのか。

それは存在するものなのか。

実は架空のものなんじゃないか。

架空のものに存在を与えるために

仕組まれたものはないか。

 

誰かに都合の良いシステム。

誰なんだろうね。

 

 

人の心理というものを

めちゃめちゃ研究しているのだろうね。

だからうまいこと流れを作っているんだ。

そういう前提で世界を眺めたら

綻びが見えることがある。

 

そのときハッとして

わたしの考えって何だろうと。

わたしはそうして

自分に意識を向けるようになった。

当たり前だと思って流れ作業のようにしてきたこと

それって実はいろんな選択肢があったんだなぁと

今になって思う。

システムの中に組み込まれれば

守られているような氣になる。

楽することもできる。

深く考えなくても済むし、

細かいこと一つ一つに責任を持たなくて良い、氣がする

でも、それならどうして

仕事だから仕方がないとか、

そういうものだから仕方ないという言葉が出るのだろう。

 

 

 

自分の感覚で生きよう。

『しくみ』『きまり』『他人が成功した方法』

『誰かが言ったから』

そういうのに乗れば簡単かもしれない。

でもそれはわたしじゃない。

結局誰かのやりかたをなぞるだけか、

いいように組み込まれてしまう氣がする。

そういうやり方は一度経験してみて

やっぱり違うわ、と思ったのでもういい。

だってそれはそもそも、わたしのことを考えて作ってくれた仕組みではない。

 

自分で人生をコントロールできたら楽しいよなって。

そう思うので

『一般的には』考えられない速度なのだろうけれど

日々すこしずつ準備している。

準備であってそれも本番、みたい。

準備段階も楽しいんだなーって思っちゃった。

わたしのこののろさは、ダメなんじゃないか、

って思ってても動けなくて、

ああ、でも、いいのかもな、って思った。

そうじゃないと

思ったものを届けられないのだろうな。

 

 

誰かが言う正しい

自分が思う正しい

なんて、

違って当たり前。

自分の中でだって

変化するものだと思う。

 

そして、正しくないかもなってことをやってみるのも経験。

 

 

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