感覚で生きていい


雨の日に、長靴もって傘もって、お迎えに行ったら、

娘は大喜びで水たまりを歩いた。

一緒になって、水たまりを歩いた。

ちょっと子どもみたいなことをしたかったのだ。
雨の日にはかっぱを着て遊びます、っていう保育園で。ハッとしたの。

草の上を歩き、鳥を追いかけ、ミミズを見た。

10分の道を、1時間かかった。

 

それにしても。

なんかおかしい。

調子がよくない。

最近ずっとだ。

仕事だ!と思って調整していくと何とかなる。

でも、そうじゃない日、グダグダだ。

 

自分が、何をどうしたいのか、よくわからないのだ。

曇りガラスの向こうというか、霧の向こうというか。

なにかいつも足りない、満足感がない。

でもどうしたいのか、わからない。

書き出しても、散歩しながら考えても、わからない。

なんかしっくりこない。

ないないない。

 

モヤモヤ、もやもや、してる。

 

 

今日、いつもの公園を、眼鏡を外して散歩してみた。

0.1もない視力で。乱視もある。

木漏れ日が、何かのエフェクトみたいにキレイに見えた。

 

 

感覚で生きていい

 

って降ってきた。

 

考えているのは

常識とか他人目線とかだから。

自分がどうしたいかなんて、

感じることをしたらいいだけだ。

その、感じるってことが、できてないんでしょ。

それはそれは巧妙に、

自分がどうしたいかなんて出てこないように、

組み立てられてきたから。

そうしないとこの仕組みの世界では不幸になってしまう、
ように思わされている←ややこしい

 

こんな感覚、

自分がよくわからないけれどなんかフィットしてない感覚、

 

ボディワークを学び始めてからかも。

 

そして、学ぶ過程で、わたしが変わってきたから、

今までの環境とか考え方が合わなくなってきたのかな。

なんかすっきりしないなー、って、

不協和音。

 

それまでは、

環境とか社会とか常識とか決まりとかの枠に、

自分を合わせてきて。

でも自分が変わってきちゃったから。

形がはっきりしてきちゃったから。

枠にはめて考えられないぞと。

でも、枠にはめる方法しかやってこなかったから、

そこからどうしたらいいか、わからない。

 

そういうことなんじゃないかと、いう氣がしている。

 

ボディワークを学び始めて、元気になるかと思いきや、

モヤモヤに引っかかってしまって。

でもそれは、道としては合ってるんじゃないかな。

 

だから、それをもう超えてしまった誰かに、

助けてもらえっていうことか。

革命起こしてこいって、いうことか。

 

そうか。

そういうことか。

 

自分のことって、限界があるから。

自分の中にある方法しか知らないから。

だから、人の手を借りる。

ほんと、すっぽり抜けてるみたいなの。

んー、あの、赤ペンで書いた字が、赤いフィルムのシートで隠すと見えなくなるみたいな?
受験勉強で使ったやつ。
ほんと、自分じゃ見えなくて。
でも、わかる人には、わかるらしいのね。
あーそれね、って。

自分で自分のこと全部はできないって、

ステキなことよね。

 

ボディワークも、

一言で言うと、

「なんかよくわかんないけど変わる」

で。

たぶん理屈はあるけれど、

感覚で得るものなのかなって。

自分の中に落とし込まれたら、

自然と湧いてくるようになるんじゃないかな。

こうしたらこうなる、じゃなくて、

こうならざるを得ない自然な流れ。

人の触り方もそうなんだよな、

頭で考えても、ちっともうまくできなくて。

上手な人って、柔らかく踊るように触れる。

ただインストールすりゃいいんじゃなくて、

そういう自分に『なる』しかない。

『なる』は簡単じゃない。

薄っぺらくないから。

 

 

水たまりを歩きたければ歩く。

ズボンは洗濯したらいい、靴は乾かそう。

そんな生き方をどこで忘れてしまったんだろう。

 

子どもの頃みたいな生き方、してみたい?

 

テキストのコピーはできません。