学校教育とは何か、考えたこと、ありますか?


この国の教育のシステム、

学校教育とは何か、

どう思いますか?

私は、ひとつの考えに至りました。

 

その前にまず。

私は決してデキる教員ではありませんでした。
たくさん、やらかしました。
あのときあの子にああしてあげたらよかったな、って思うことは今でもあります。
当時の私を知っている人にしてみれば、
「お前みたいなのが何言ってんの」
と思われることは重々承知でここに書きます。
そんな私だけど、
自分の子どもが生まれてから、
教育への感覚が、どうも、合わないと思うことばかりになりました。

父が亡くなってから、やっぱり学校教育はおかしいな、と強く感じるようになりました。

これから書くことを読んであなたがどう思うかは自由です。
私が正しいとは言わないし思わないし、
誰かと違おうが間違っているとも思いません。
ただ、ひとつの、感覚、考えです。
明日には変わっているかもしれませんし。

批判も賛成も要りません。
『あなたが』何を感じ、何を思うか。
そこにフォーカスしてください。

 

わが子が生まれたことと、1年生の担任をしたときのこと

子どもが生まれると、
ひとつひとつの成長が喜ばしい。
生まれてすぐの小さな身体に感動。「え、何この小さな手足!爪小さい!鼻の穴ちっさ!」
笑ったのかどうか微妙な表情に「ああっ笑った!!!写真撮れなかったもう!」
何か声を出したら「おしゃべりしてくれるの?」
寝返りして大喜び。
立った歩いたなんて大騒ぎ。
初めて『ママ』の絵を描いてくれたときや、
園で母の日のプレゼントを工作してくれたり、
間違いだらけのお手紙をくれたりしても、
涙が出るくらい感動。

そうやって育ってきた子どもたち。
まあ家庭の事情などで困難を抱えてきた子もいることでしょう。

1年生になること、
お兄さんお姉さんになることにワクワクドキドキしながら、
学校に入ると、、、

みんなと同じでなくてはいけない。

集団生活だから。

静かで、従順で、問題を起こさない子で、
できれば授業中は反応がよくて、勉強の飲み込みも早い。
体育もそこそこできて、
絵も言われた通りに描けて、
音楽も言われた通りにできる。
友達とは争わない。
その時間にやらなければならないことをやる。

そんな子が、通知表では評価されます。
学校では優秀とされます。

ね。
例えば。
たしざんのテストまでに、たしざんができないと、
たしざんができない子ってことになってしまう。
学習の記録としてはね。
通知表はテストの点数だから。
ここには書けない様々な諸事情もあるんですけどね。

でもね、あと1週間したらできるようになるかもしれないじゃない。
何か月かしたらできるようになるかもしれないじゃない。
他の先生が教えたらストンと落ちるかもしれない。
なのに集団だからどうしても期限があるわけ。
先生だって、できるように手伝いたい気持ちがあっても(残念だけどない人もいる)、
その子にばかりやっていられない。

本当に辛かったのは図工です。
図工には、学習としては、その単元でやりたいことがあるわけです。
例えばね、
絵の具の混色をする、とか。
でも楽しくなっちゃうじゃない。
やりたいことが出てきちゃうじゃない。
色を混ぜるのは2つまでね、と言っても、全部の色を混ぜてみたくなった。
当然、指示通りに2色だけ混ぜて丁寧に塗った子と、
たくさん混ぜたらどうなるんだろうと泥のような色になって紙に爆発させた子と、
褒められるのは前者なんですよ。
そりゃそうですよ。私もそう思ってた。

でもさ。ダメと言われてしまう子だけどさ。
やりたいことをやってみる。
結果、泥のような色になることを発見。
その泥色が、美しいかどうかは感覚による。
美しいものを作ろうとしてやってもいない。
人と比べてどうとか見ていない。
生き生きして楽しんでいる。没頭している。
それ、良いよ。

言われたことを守り、それを破るなんて想像もつかず、
失敗しないように慎重に、整った作品を作る。
それだって良いよ。

どっちだって良い。

どっちの人間も良いと思うの。

きっとこの子たちは大人になって、全然違う生き方をすると思う。

でもいろんな人がいるからこそ、支えあうことができる。

ただね、それが無理をしてそうしているのなら、どうかとは思う。

 

だけどさ、
学校としては、ねらった力をつけて欲しいわけ。
今ここでそれじゃないでしょ、ってわけ。
だから学校目線としては、、、ね。

 

紙にちょこっと描いても「すごいねぇ」って褒められている当時幼児のわが子たち。
一方で、図工をやってる学級の子どもたち。

マットで前転ができない、
走るのが遅い、
泳げない、
スラスラ音読できない、
食べるのが遅い、
それ、そんなに重要?
生まれた日のあの子を見たときの感動、もう存在だけで感動だったのに?
今できないかもしれないけど、それ一生できないって決まったわけじゃないし、
一生それでも良いのではないか?
じゃあそんな自分でどうやって渡っていこうか、って考えりゃいいのではないか?

うーーん。
また私は考えるのである。

 

テストや通知表がそんなに重要ではない、と思うし、
私もかつてそう言っていたけれど、
だったら通知表なんて要らないし。
だいたい通知表を作るのに先生方の負担って半端ないです。
多くの場合、残業や休日出勤しないと間に合いません。
テストの点数打ち込んで、基準決めて、文章考えて打ち込んで、上司に直せって言われて、それを他の上司にさらに赤入れられて(何それ)、
絶対評価とか言ってるのに大変良いが多すぎるとか言われて(え!)、これ親から文句来るかなとか思って、でもこれあの子に渡してやる気出してくれるの?と笑。

テストは、今時点の理解度やどういうフォローが必要かがよくわかるという意味では悪くないと思う。

んー、つまり、
勉強やテストや通知表で、
あんまりできるできないを気にしなくていいんじゃないか。
子どもにとって、それが、プラスに働けばいいけど、
どうもそうじゃないケースが多いのではないか。
成績が良かったとしても、そこから学ぶことは、、、
どういうことだと思いますか?

特に通知表なんてね。
大人の事情があるんだからほんと。

 

私自身の子どもについては、
学校が目指すものと、わが子に必要なものと、違うのであれば、
良いとこ取りしちゃえばいいな、と思っています。
勉強させてもらえるのは良いし、
集団の中のいろいろも良い経験だし。
でも心や身体が病むくらい無理はしなくていい。
テストも過剰には気にしない。

 

みんなと同じようにする意味って何だろう

列をまっすぐにして並ぶことや、
気をつけ、休め、をピシピシやって、体育座りじゃないとダメだとか。
私にはまったく意味がわからない。
列をまっすぐにしないと、困ることがあるのならいい。
避難訓練でサッと人数を確認するとか、
限られたスペースにたくさんの人が入らねばならないとか、
そういうことを理解していないのに
「ほら曲がってる!!」
って言われてもちゃんとしなくても仕方ないんじゃなかろうか。
いざそのときになったらできないから、というのならそういうことまで伝えたらいいのではないか。
そしてどうしてもできないのなら、その子へは他の方法を考えるとか。
体育座りじゃないとダメだとかほんとわからない。
人の話を聞くのに失礼な姿勢でなければ良いんでないの?

とか思い始めたら、
なんか先生としても指導しづらくなってきて。
自由にするということ、任せるということは、
指導する側の手間、時間、負担が増えるのだ。

そういうことを言うから荒れる学級があるんだ、という声が聞こえた気がします。
そうですかね。
学級ってどうして荒れるんでしょう。
力で押さえつけていて荒れていないだけなら、その子たちにとって意味があるのだろうか。
一人ひとりの子とコミュニケーションを取り切れないからじゃないかなって私は思います。
もちろんいろんな理由があるので一概には言えないけど。
きっともっと上手に聴いてあげる必要があるんだと思う。理想論なのはわかってる。
はっきり言って先生にそんな余裕ないでしょう?
40人近くの子どもがいて、勉強もハイペースで、けがをさせないことに気を配り、
保護者の怒りを買わないように気をつけるだけでも、もう疲れますよね先生。
無理なんですよ。先生のせいじゃない。
あ、そりゃ荒れるわって指導をしてる場合もあります、ありますよ。
それ人としてどうなのって思うこともあるし、
新卒だって初めて担任するのにいきなり一人でやらなきゃいけないし。
1学級を一人で経営するスタイルどうにかなんないかなぁ。
でもそれは予算が、でしょ。お金ねぇ。

じゃあ、、先生の負担軽減のために、
窮屈な決まりがあるのか?
先生と言うか、やるべき教育の内容を進めるには、
効率化みたいなことが必要なんだろうね。

正直言って、先生も思考停止してる人が多い。
考えたところで、変えられない。
担任が変わるたびに指導が変わるのか、
前例がないことをやるのか、
などなど。
そうなったら思考停止するのが一番楽です。
爬虫類の脳です、ポリヴェーガル理論で書いたやつ。
ポリヴェーガル理論入門を読んだ

 

なぜ勉強するのか

これは国とかじゃなくて全くの私の考えなんですけど。

勉強をする理由。
・幅広い考え方をすることができるようになるため。
・学び方を学ぶため。
・そうすると自分の頭で考えることができる。
・ってなると自分の人生を充実させることができる。

だと思っています。30歳くらいになってそう思うようになった。。。
それまでは、大学に行って就職して生活するためだと思っていた。

知識、経験、先人たちのものを受け継ぐことができるのは幸運なことです。

それを学校に行けば義務教育ではタダで教えてもらえるわけで、なんてステキなことでしょう。
勉強したくてもお金がなくてできないとか、
そもそも学校がないとか、
女だから、身分が低いから、学問は必要ないとか、
いろいろあります。

やっぱり勉強しないとするのとでは頭の中身が違うと思うんです。
勉強できる場なら、学校でなくてもいいと思う。

学校のカリキュラム以外の勉強だって同じように価値がある。
学校がすべてなんかじゃない。
でもわりといろんな分野を網羅してくれているのが学校。

やー、だから、できるものとできないものと、あっていいんですよね。

国語が得意だけど、算数は苦手、でいいじゃない。

私、数学と化学と物理から逃げても大学行けたよ。

 

日本は教育で何をしようとしているのか

私が退職しようとしていた頃、
ちょうど、英語教育、プログラミングが学校に入ってくるという話になりました。

え?

あのさー、2年生が終わるというのに九九だってなかなかできない子がいて、
どうしたらその子ができるようになるかなって、
大人になる頃にはできているだろうし何なら計算機使えばいいけど、
せっかく本人もやろうとしているので何とかしたいと思っていて、
でもほんと時間がないんだよなーって、
どうやったら「できた!」の楽しさ経験できるかなぁ、って、
悩んでいるのに、

なに、また何か増やすの?

英語?
日本語もうまく扱えなくて日々喧嘩が絶えないのに?
英語喋るかどうかより、何を話すかの内容とか、コミュニケーション能力じゃないの?
自分はどう思って、ほんとはこうしたくて、じゃあこういう風に言えばよかったねって、
相手の話を聞いてみたら、ああそうだったんだねって、日々やってるんですけど!

プログラミング?要るの?全員に?

、、、一体、日本のお偉いさんは、どういう教育をしたいのだろう。
子どもたちに何をしたいのだろう。

この子たちが幸せであるように。
できないことができるようになる喜びを感じられるように。だってそれって楽しいから。
自分自身を活かすことができるように。
大人になったときもいろいろ乗り越えることができて、自分の人生を選択できるように。

、、、、あ。

そんなことは、

お上は、

考えてないのかも。

もしかして。

個人の幸せなんて。

だって、たとえば、

従順で、集団生活を問題なくできて、言われたことをやって、
勉強ができて、英語もできて、プログラミングもできて。

そんな人材がたくさんできたら、

誰が利益を得るのでしょう。

 

そんなふうにちゃんとできなかったら、大人になって会社に行っでも、すぐクビになっちゃって、
お金をもらえなくなって、ご飯も食べられないし住むお家もなくなっちゃうんだから!

って、私、こんなことを言ったことがあるんですよ。
とんでもない教師です。誰か止めてよ。

そうじゃないよね。
会社とかに合わせるんじゃなくて、
じゃあどうやって人生をデザインしていけるのか。
雇われるスタイルが向いているかもしれない。
でも自分で仕事を作るスタイルが向いているかもしれない。
教員は、雇われています。勉強もそこそこできました。
で、他の生き方をどれだけ提案できるだろう。

 

 

経済。

経済のためか。

あーーーー。

 

いや、そうじゃないと言うでしょうよ。

確かに、システムをうまく使えば個人的にも物質的に豊かになるでしょう。

 

あー、そういうことか。
そう考えたら、いろいろなこと、教育以外のことも、
私が日々感じている違和感が納得がいく。

私が思ってた勉強をする理由
・幅広い考え方をすることができるようになるため。
・学び方を学ぶため。
・そうすると自分の頭で考えることができる。
・ってなると自分の人生を充実させることができる。

こうなっちゃったら、
みんなが充実しちゃったら、
損をする人がいる。

それは誰かな?

(*´Д`)

私は、もうすでに、家事育児と仕事、体力気力の限界で、退職届を出すことは決めていたのだけれど、
もう学校教育を職業にしたくないな、と思ってしまったのです。

若いころに吐いてまで仕事へ行っていた父、
誰が食わしてやってるんだと暴力をふるったこともある父、
定年退職してこれからと思っていたら身体を壊して亡くなってしまった。
お金のために人生を犠牲にする、そんなことはどこで学んだのだろう。
誰がそれを当たり前としてきたのだろう。
生活するってそういうこと。
働くってそういうこと。
本当にそういうことなの?
そこだけ切り取ってみるとそう思うの。そりゃ父なりに幸せだってあったと思うよ。

 

だけどね、
そういうことを知ったうえで教員をしていれば、
最前線で子どもたちを守ることもできる。
そういう先生を何人も知ってる。すごいなぁ、と思う。
でも、貴重な人材です。多くはそこまで考えてないでしょ?考えないように教育されてきているものね!

 

じゃあ私は何をしたいのか?

私はね。

自分の光を見つけられるようにお手伝いしたいんです。

怪しい宗教とかじゃないって!

その人が、もっているもの、
まだ磨いていないものに気づくきっかけになりたい。
すでに気づいているのなら、そのまま進んでいけるように。

だから学校の先生になったんです。

学校なら、どんな子も来る。
かつて私が、家庭でどうあろうが、先生は話を聞いてくれて、能力がある才能があると引き出してくれて、
大切に扱ってくれて、自分は大切にされてもいい存在なんだって思えた。
他人から大切に扱われるという経験は大きいと思う。

そう思ってたけど、
どうやら私は場所を間違えた。
スルリと抜けてうまくやるほど器用じゃなかった。

そして自分自身が苦しくなっちゃって、
辿り着いたのがヨガ。
ヨガ哲学でどんなに人生が変わったことか。
呼吸やアーサナで気づきを得る日々。

今は楽しいよ。
悩むことすら、楽しい。

ヨガって、とってもいい。心にも身体にも作用する。
トークセンだって、その人の身体の本来の力を引き出す。身体にアプローチすると心も変わる。
どっちも同じ。
あなたはもともと素晴らしいんだってこと。
扱い方によって光るってこと。
扱われ方、じゃないですよ、自分の取り扱いね。

 

 

出典 教育基本法 文部科学省サイトより

第一章 教育の目的及び理念

(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

    • 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
    • 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
    • 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
    • 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
    • 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

(生涯学習の理念)
第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育の機会均等)
第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

テキストのコピーはできません。